菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力― アン・アリスン

印象に残った文章をかいつまんで。

 

日本において、精神性、霊性という古さと、デジタル/バーチャル・メディアという新しさが混合されていることは、テクノ‐アニミズムを実証している。

 

異世界との非乖離は、日本が文化のルーツに執着しながら近代化へ突き進んだことを、他の何よりも象徴している、という。

 

進駐軍の廃棄場を清掃する代わりに、ブリキ缶を無料でもらうという交換条件が出され、玩具製造者はおもちゃを製造できた。当局からの指令と、戦争直後の占領軍の要求のもと、玩具製造は輸出業における「自由市場」に再参入した日本での最初の事業となった。

 

1990年代から、2000年代初めは、不安の時代である

 

子供達は、父親がほとんど不在の家庭でしつけと愛情を混同あるいは融合させた母親に育てられ、地域社会と交わらず、「子供達の心を見ていない」教師に教えられる

 

「親しさ」の定義はかつてないほど不透明になっている

 

専門家は引きこもりの特徴は、悲哀、ストレス、希望の欠如(生きる意欲の欠如)を強く感じていることにあるという。

 

子供達が部屋から出てこないのは、本当に望んで引きこもりたいからではないということがわかる、ただ、ほかに「自分の居場所」が見つからないのだ。学校や塾の環境や脱産業化後の実力主義(延々とつづく勉強、暗記、試験など)が彼らの心身からエネルギーを吸い取ってしまう。

 

「親密さの中における疎外感」における、人と人、人と社会、人とリアリティとの距離はどのようなものか?

 

キャラクターは都市化、核家族化、少子化で分断された現代の消費者にとっての「人間関係のライフライン」であり、人々のトーテム、お守り、「シンボル作用」となっている。

 

日本人の遊び道具が、21世紀型資本主義の一部でありながら、創造世界では資本主義がもたらす弊害の解毒剤になるという矛盾する要素をいかにはらんできたか

 

たとえば、神道では、人間も自然の一部にすぎず、人間に使われ従属させられるのではない自立した動物たちの物語が民間伝承にあふれている。日本人はまた作り出したものに「不思議な感情」を抱き、長く使われた道具やたとえば古木や巨石などの自然のものは、精霊や妖怪になると古くから信じてきた。そういった「日本人のやさしさ」は「われわれの精神文化」の特徴である、と長尾は言う。そういった日本人が伝統的に持っている心性が、ポケモンという生き物に反映されて、21世紀を生きる子供達の自意識に意図的に訴えかけられている。

 

「かわいい」の一面である「やさしさ」(長尾剛が言う日本文化の感性の核にあるものを表現する言葉)

 

愛着ある商品とのつながりについて語り、またモノとつながろうとすることは、モノにかつてないほど依存している私たちの社会での生き方を示している。だが、モノを獲得することの魔術によって、人は二つに引き裂かれると太平は見ていて、私もその見方に賛成する。一つは、自分自身をモノ化して考える時代には、人間の経験の豊かさまでもがモノに還元されてしまうことだ。もう一つは、「生き物のような」モノにエネルギーと愛着を注ぐことが、人間の疎外感と孤立化を深め、非人間化を進めてしまうことだ。マルクスはかなり早い段階で資本主義がこの傾向に陥るとみていた。労働と人間関係の力と価値を商品に反映するうちに、人は疎外され非人間化される、ということで、マルクスはこれを「商品フェティシズムと呼んだ。

 

 

 

アメリカ人の著者から見た日本の遊び道具についての論考は、なかなか興味深いものだった。外から見たら、そう見えるのか…という発見。自分も子供の時、ポケモンやマリオに触れていたから、身近に感じながら、読めた。何かイベントがあるたびに、トイザらスに親に連れてきてもらって、ずらっと並んだゲームを眺めて、ワクワクしつつも、どこかで冷めていた自分を思い出す。ゲームをやっている時は、あんなに熱中しているのに、飽きたらすぐぽいっと物置行き。そんな行動に自分ながらちょっと怖かった。今の子供達はその傾向がますます進んでいるんだろうか。そもそも、現代では買わないとできない経験が本当に増えた。お金ありきの社会は、資本主義だ。お金との関係を見直す時期に来ているのだろうか?