はじめてのジェンダー論 加藤秀一

本書では、ジェンダーという概念を次のように定義することから出発します。

私たちは、さまざまな実践を通して、人間を女か男か(または、そのどちらでもないか)に<分類>している。ジェンダーとは、そうした<分類>する実践を支える社会的なルール(規範)のことである。

 

……人間を男と女に<分類>する実践に着目するということは、すなわち性別という現象そのものを一つの謎としてとらえるということです。「人間には男と女がいる」ということを自明の前提として置くのではなく、逆に考え方次第で簡単にないことにできるようなものとして扱うのでもなく、<「人間には男と女がいる」という現実を、私たちはどのようにしてつくりあげているのか>を問い続けるということです。 

 

ちょっと話が横道に逸れますが、こういうとき、人がしばしば「生理的に嫌」というレトリックを使うのは興味深い事実です。……嫌悪感のような感情あるいは感覚のあり方には、生まれつきの部分、究極的には生物進化に根ざした人類共通の部分だけでなく、その人が育った社会的環境に深く結びついた部分もあるからです。……このように考えてくると、「生理的」云々という言い回しが示しているのは、味覚が生まれ持った体質で決まっているということではなく、むしろ私たちが環境の影響をどれほど深く「身体化」(エンボディメント)するかということなのだ、ということがわかります。

 

トイレを人種別にするのも性別で分けるのも、あるいは身体に障害のある人が使いやすいトイレをつくるのもつくらないのも、肉体の仕組みや本能などではなく、私たちがどのような規範にもとづいて行動するかにかかっています。そしてたとえば、外見と自己認識における性別が食い違う人々や、自分を男でも女でもないと感じる人々が安心して使えるトイレが少ないことも、私たちが行う社会的実践の結果であり、人々を「男」と「女」という記号に関連付けて<分類>するやり方としてのジェンダーの現れなのです。

 

人間を肉体の構造からみた場合、大きく2つのグループに分けられることは事実です。卵巣をもち卵子をつくる個体と、精巣をもち精子をつくる個体です。もしも「性別」という概念がただ単に生殖機能の違いだけをさすのなら、それは水素原子と酸素原子の違いに似ているかもしれません。実際、生物学者たちは、ヒトであれ他の動物であれ区別なく、「オス」と「メス」という概念をそのように使っています。その場合は、わざわざ人間にだけジェンダーという概念を使う必要もないでしょう。しかし実際には、そう簡単にいきません。なぜかといえば、私たちが生きている現実において、性別という概念は単純に「精子をつくるか、卵をつくるか」にはとどまらない、それ以上の意味をもっているからです。人間の「女」は単なる「メス」ではないし、「男」は単なる「オス」ではないのです。

 

私たち人間は、<分類>する側と<分類>される側との間の相互作用=ループ効果を通じて、女性と男性のあり方を決めていく。そのような相互作用を支える規範をジェンダーと呼ぶ。……こうしてみると、ジェンダーという現象が、人と人との関係という意味で「社会的」なものであるということがいっそう際立ってくるはずです。

 

トランス男性はシリアスなドラマになり、トランス女性と言えば毒舌とお笑い。この明瞭な非対称性は何を意味しているのでしょうか。かつてシモーヌ・ド・ボーヴォワールが名著『第二の性』で述べたことが一つの手がかりになりそうです。ボーヴォワールによれば、男性が人間の基本形であり女性は二次的な派生物のようにみなされる性差別社会の中では、女が男になることは「昇格」であるのに対し、男が女になることは「転落」を意味するために責めを負いやすいのかもしれません。それと関連して、「男らしさ」の方が「女らしさ」よりもある意味で呪縛がきつく、許容範囲が狭いのかもしれません。

 

アイデンティティ問う側問われる側はしばしばマジョリティとマイノリティという<分類>と重なっています。そしてマジョリティは自分自身のアイデンティティを空気のように透明で自然なものとみなし、その自分自身を基準として、マイノリティを異質で偏った<他者>として扱いがちです。

 

ジェンダーが女と男の分類を指すのに対し、セクシュアリティとはある種の欲望を表す概念です。日本語に訳せば同じ「性」になってしまいますが、その中身は全く違います。

 

性差とは事実としての男女の違いを意味する概念でした。……

これに対して「性役割」は、人がその性別に応じて社会の中で期待される行為のパターン、と定義されます。期待をもつことは心の状態ですから、性役割とは男女の性質や行動の違いそのものではなく、そうした違いに関する人々の考えーー「女はこうあるべきだ」「男ならこうしてほしい」といったーーを表す概念だということになります。

ここで重要なのは、性役割への「期待」は実際の性差とイコールではないということです。もちろん人は周囲からの期待を、とりわけ広く社会的に共有されている期待を吸収しながら育ち、またそれを意識しながら行動するものなので、人々の頭の中にある「性役割」は男である人・女である人それぞれの性質や行動パターンに影響を及ぼし、それゆえ性役割と性差の内容は一致しやすくなります。

 

暴力と暴力でないものとの境界線は特定の動作や力そのものに宿っているわけではなく、それらを私たちがどのような文脈の中で行使するか、言い換えれば、どのように意味づけるかにかかっています。いかなる行為も、もっともな理由のある、正当な行為とみなされれば暴力ではなく、もっともな理由のない、不当な行為とみなされれば暴力と呼ばれる可能性があるのです。それでは、正当と不当の区別はどのようにして決まるのでしょうか。あるいは、決めればよいのでしょうか。ここで忘れてはならないのは、行為の意味は複数あるという事実です。……最も基本的なことは、暴力という概念を意味のあるものとして理解するためには、<被害者>の視点をとらなければならないということです。……暴力という現象が存在するということを前提として認めるならば、それを<被害者>の視点から意味づけなければならない。もしも反対に<加害者>の視点をとるなら、そもそも暴力という現象はこの世に存在しないことになってしまうからです。子供を殴り殺したり餓死させたりした親は、それを「しつけ」だったと抗弁するかもしれません。女性を脅して性行為を強要した男性は「合意のうえのセックス」だったと言い訳するでしょう。かれらの視点から見れば、それらはすべて問題のないこと、あるいは良いことであって、暴力などではありません。こうした<加害者>の言い分ばかりが通る世界には、暴力など存在しないのです。なんと治安の良い世界でしょう。しかし、あなたはそういう世界に住みたいですか。

 

ジェンダー論の基本中の基本が丁寧に書かれている。

使われる言葉の意味を曖昧にせず、しっかり考えることが誤用や乱用を防ぐのに効果的な方法だとわかった。

自分も「オス」「メス」は別に構わへん(そら、そーやと思う)けど、「女性」「男性」に違和感を持つ理由がより明確になった。

 

読んでてふと気になったのは、「男らしさは女らしさよりも狭いのでは」という文章。

確かに、男は見た目の自由性は女性よりかなり低い(長髪、スカートに対して否定的な印象がある、化粧など身だしなみに力をいれるとからかわれる、物のデザインも女性のよりも幅が狭い?)。前は、社会上での立場が高かったから、よかったのかもしれないけれど、非正規雇用率が高まって、男性も非正規で働く割合が増えて、……苦しいのではないかなあ。

女性解放も大事だし、男性解放も大事。だから、私は周囲の男性たちに「男らしさ」を無理に求めないように気を付けたいな。その人らしさを尊重できるようになりたい。

いろんな本が紹介されていたから、折々に読みたい。