脱「いい子」のソーシャルワークー反抑圧的な実践と理論ー 著者多数 現代書館

私たち著者5人がこのタイトルに込めた思いに少し触れてみたい。

福祉の世界には、様々な「抑圧」が蔓延し、「いい子」の支援者が結果的にその抑圧を後押ししてしまっている。そしてこの「抑圧」は、福祉現場に閉塞感をもたらし、ケアや支援の仕事を、つまらない・しんどい・希望のないものにしている。逆に言えば、「いい子」から脱し、抑圧に目をつぶらず、変えていく実践ができるならば、支援現場の実践はもっと面白く、魅力的になる。これが私たちの仮説である。

 

「いい子」というのは「世間や体制、社会システムにとって都合のいい子」なのである。

 

 

社会的弱者を支援するのは「本質的な仕事である」と建前で言っていても、それに見合うだけの実質的評価や金銭的保証がなされていない。これは社会的弱者を低く評価しているだけでなく、社会的弱者にかかわる仕事をしている人をも低く評価している日本社会の抑圧構造の顕れではないのか。

 

抑圧の内面化

 

反抑圧ソーシャルワークでは、人々の「生きにくさ」を構造的な力の不均衡から生まれるものと捉える。あなたの能力が不足しているから、我慢が足りないから、「生きにくい」のではない。あなたにそう思わせるような社会的抑圧や構造的な差別が蔓延していて、かつ自己責任論や弱肉強食といった新自由主義的な考え方がそれを後押しし、放置されているから、自殺者も社会的ひきこもりも多い、希望のない日本社会が固定化されているのである。

 

そんな社会はいやだ!こりごりだ!ちょっとでも魅力的な社会に変えたい!その思いを実現し、「生きやすい」社会をつくりだすために、権力の自己省察を怠らず、「変えられないもの」と思い込んでいる法や制度、社会規範さえも、「本当にそれでよいの?」と批判的に捉え直し、他の人とつながりながら、建設的批判やそれを実現するための社会的・政治的活動をも行う。

 

日本の日常的な文脈において、「抑圧」は人々が日々社会で感じている様々な「生きにくさ」や、「モヤモヤした違和感」、「やりきれなさ」、ひいては「絶望感」として現れてくる。

 

ソーシャルワーカーとして共感性を持つ自分のなかに、傲慢で特権に鈍感な自分が共存していることを意識し続けることは、とても大事である。自分を恥じるような体験に正面から向き合えたとき、内省的省察が可能となり、自己成長へとつながる。

 

「日常の中の政治活動(小文字のpのpolitics)」

 

支援者自身が、自らを脅かす抑圧を「しょうがない」と受け入れたとき、支援を必要とする人に対し抑圧的なまなざしが向いてしまう。それが抑圧の再生産である。組織の機能不全や多数派の流れに疑問を持たない、もしくは異論の声をあげられない福祉職者が抑圧の一部となったとき、支援を必要とする人たちもまた、その抑圧構造に否応なくからめ取られていく。

……人が社会や組織の一員として公平で尊厳ある扱いを受けられない仕組みに対しては毅然と「No」を表明する姿勢を示すこと。他者の心からの訴えやSOSに共感できないとき、それを阻んでいる壁は抑え込まれた私たち自身の声かもしれない、と自らを振り返ること。

……「自分の『あるがまま』が受けいられず尊重されないときに、他者の『あるがまま』を受けいられるか?」この問いを個々の職員の良心や職業倫理の問題に留めず、組織そして社会の責任として語り合う場が、今求められている。

 

自分の手元に置いておきたい本。

自分が小さい時、とーっても「いい子」だったので、とーっても苦しかった。

そんな思いがずっと胸の奥にあるので、この本はすーっと胸の奥まで来てくれたように感じる。みんな何かしらの抑圧を感じている。その抑圧を仕方がなく受け入れ、その抑圧を他人にも押し付ける・・・そんな悪循環は嫌だなと思った。

「NO」というのは本当に勇気がいるが、皆のためを思えばそれこそが望ましいのだろう。

日本政府は国民をコントロールしたいという欲が強まっているように感じる。

それに対して、どう向かい合うか。

カナダに留学してみたいなあ!ああ~~