人は皮膚から癒される 山口創

スキンシップのもっとも原初的な意味は、生まれたばかりの赤ん坊の体温が低下しないように、養育者が触れて保温することだった。もともとスキンシップは生命を維持するために必要だったのだ。一方でそのように温かい身体で触れられることは、情動レベルでは赤ん坊にとって、養育者に守られて安心できる快の体験でもあった。抱かれるたびに安心することを幾度となく繰り返す経験をした結果、それは不安や恐怖、ストレスなどの不快な心を癒す行為と結びついていった。さらにそこから発展して、触れて安心させてくれる人に特別な愛情の絆である愛着関係を築いて、その関係を強め、そういう人を信頼するようになった。これが認知レベルである。

身体レベル→体温の保持 情動レベル→安心、快 認知レベル→愛着、信頼

 

ストレスは体温を低下させ、それは代謝や免疫機能まで弱めてしまう。よく「顔面蒼白になる」とか「肝を冷やす」というが、実際に体温が下がっているのだ。

 

うつ病などの感情障害の人は、健常者よりも汗をあまりかかない傾向がある。その結果体温の調節がうまくできず、深部体温が高くなってしまうという。

 

ハリー・ハーロウ(米国の心理学者)のアカゲザルを用いた実験……

……この実験結果から、ハーロウは、愛着は授乳による欲求の充足よりも、むしろ「柔らかく温かい肌の接触」によって形成されると主張した。つまりスキンシップの重要性を立証したのだった。愛着の根本には「皮膚への温かい感触」による慰安や安心感が存在すると考えられる

 

もともと日本人のスキンシップというのは、奇妙であるとよくいわれる。

幼少期こそよく触れているものの、子どもが成長するとまったく触れなくなってしまうのだ。成人後は、握手やハグの文化もないため、恋人や夫婦以外の人と直接触れることはほとんどなくなってしまう。

ところがかつての日本の文化では、このような成人のスキンシップの不足を補うための装置が備わっていたと思う。それは皮膚の交流である。日本人は常に人と人の交流の中に暮らしの中心を置いていたため、直接的に皮膚を接触しなくても、皮膚は他者を常に感じていたのではないだろうか。……脳は周囲にいる親しい人を、あたかも自己の身体の一部であるかのように感じている。だからこそ昔の日本人は、わざわざハグや握手をして境界を解く必要がなかったのだ。

ところが、近年は親しい人たちとの生活の場であるコミュニティが崩壊し、その一方で欧米流の「プライバシーの保護」が重視されるようになり、互いに干渉しないことをよしとする風潮が強まった結果、人との境界感覚はさらに強まった。また、暗黙の信頼関係をベースに営まれてきた人間関係は、相手を信頼しないことを前提とした関係、すなわち契約関係に置き換わっていった。

それに追い打ちをかけるように、近年ではSNSの普及によって、面と向かって交流しない関係も急速に増えた。そこでは境界としての皮膚の感覚を介さずに、直接的に情報が目から脳にインプットされる。

 

……このような流体としての境界と似た概念を、日本語では「あわい」という。

私たち日本人の境界感覚というのは、世界的に見ても特異だと思う。境界を曖昧にすることを美徳とするのだ。

……「あわい」という言葉は、もともと「あう(会う・合う)」が語源だという。つまり、「分け・隔てる」ための境界なのではなく、むしろ相手と境界を共有することを前提にした言葉なのである。日本人にとっての境界は、「自己」と「他」というような互いに峻別することによる排斥関係なのではなく、むしろ2者の境界を曖昧な状態にすることで未分化な混沌が生まれ、その中にこそ自己を感じられるといえばよいだろうか。

 

「剛体」としての境界は、大地、海、大気の各々が確固とした境界に区切られ、独立して存在している、いわば各々の境界が閉じている状態である。それに対して「流体」としての境界は、各々が流動的に変動し、互いに影響を与え合う、いわば境界が拓いている状態である。……人と人が境界を拓いてつながるためには、「流体」のように柔軟な境界が必要であろう。相手と対面して「見て」「話し」「触れる」といったことを通じて、境界で起こる現象を感じられることが大切である。皮膚を通して相手を感じると、それに自分の身体が反応してホルモンや自律神経などの変化が起こる。するとそれに相手の身体が反応する。こうして互いの身体が共振することでコミュニケーションが深まっていく

 

受け手の境界を拓き、深い部分で身体を共振させ、その結果として心の変化も起こしてくれるのが本物のマッサージ師だと思う。だから本当の意味で腕のある施術者は、優れた心理カウンセラーであるといえる。

 

「流体」「共振」というワードに心ひかれた。

日本人はスキンシップを喪失して……、男性はより一層喪失しているだろう(女性は割りかし女性同士でのスキンシップがある)。男性はその喪失感を恋人を得ることで埋めようとするが、恋人を得ることがうまくできず、その苛立ちや悔しさを女性たちにぶつけてしまうのではないか?と考えるようになった。しかし、その場合、ここで想定されている「スキンシップ」は余りにも幅狭い。本来は、人間同士であればお互いに癒し合える手段なのだ(握手、ハグ、など)。日本社会でのスキンシップ不足を解消することが大切なのではないかなあと思う……。それと同時に、ジェンダーバイアスを失くしていくことも大事だね。