「ユマニチュード」という革命ーなぜ、このケアで認知症高齢者と心が通うのかー 著:イヴ・ジネスト、ロゼット・マレスコッティ 日本語訳:本田美和子 誠文堂新光社

ユマニチュードは認知症の人や高齢者に限らず、ケアを必要とするすべての人に向けたコミュニケーションの哲学であり、その哲学を実現させるための技法です。

「見る」「話す」「触れる」「立つ」という人間の持つ特性に働きかけることによって、ケアを受ける人に「自分が人間である」ということを思い出してもらいます。そして、それが言葉によるコミュニケーションが難しい人とのあいだにも、ケアを通じて絆を結ぶことを可能にします。

 

自分が自分の尊厳をどう感じるかは、相手から自分に向けられている眼差しによって定まります。

 

正しい距離感をとっているか、を気にする前に考えるべきことは、いずれ亡くなるであろうこの高齢者はいま何を必要としているか?です。彼や彼女が求めているのは優しくされることであり、いたわりであり、つまりは愛です。

 

「視覚のトンネル」という落とし穴

呼びかけても私が見えておらず、聞こえていないから反応しない。彼女のような状態は認知症の患者によく見られます。「視覚のトンネル化」と言われているもので、……彼女はトンネル越しに周囲を見ているのではありません。つまり、これは視覚の問題ではないのです。耳も聞こえています。機能には問題がなく、フィルターがかかっているだけなのです。いわば、「人間関係上の視覚障害聴覚障害」であり、彼女と人間関係を成立させない限り、見えたり聞こえたりしないのです。

 

ヘンダーソンの理論に並んで、ケアに関わる人に影響を与えているのは、心理学者のアブラハム・マズローの提示した欲求5段階説、いわゆる「マズローの法則」です。ヘンダーソンと同じように人間の基本となるニーズとして「生理的欲求から安全への欲求、愛情、尊敬、自己実現へのニーズ」について言及しています。

彼はこれら5つのニーズをピラミッド構造として示しており、人間の本質についてのモデルとして看護学校でも教えられています。私は、これに異議を唱えます。

まずピラミッドは何を語っているのでしょうか。生理的欲求から安全への欲求、愛情、尊敬、自己実現へのニーズが階層上にあるということです。

つまり、基礎となる生理学的なニーズが満たされていないと次のステップには行けないのです。ニーズにはヒエラルキーがあるからです。この考えは時代に合っていません。フランスでは飢えて死ぬ人よりも愛が欠乏して死ぬ人の方が多い。日本人の自殺者は年間約3万人もいます。お腹がすいているから死ぬのでしょうか。いえ、おそらく、孤独だからです。生理的ニーズが満たされていても、私たちは生きることはできないのです。したがって、このモデルは実情とずれています。

 

社会にはさまざまな価値があります。ユマニチュードにおいては、自立と自由と依存を掲げます。誰かに依存していなければ私たちは生きていけない。これも重要な価値として定義しているのです。自律を可能にする依存。ここにユマニチュードの革命性があります。

依存は価値のないもの、回避すべきものとして捉えられがちです。しかしユマニチュードにおいては、高齢者が依存する状態をマイナスとは捉えず、依存こそが力になり得ると考えています。

 

私は、「自分で選ぶことができる能力がある。もしくは選べる可能性がある状態」を自律と呼びたいと思います。

……自律の尊重。これはユマニチュードが最も大事にしている価値観です。自律とは本人が自分のために自由に選び決定する能力です。……私は、人はどんな状態になっても何を欲しているか、自分にとって何が好ましいかを伝えることができると思っています。ですから、最期のときまで自律は尊重されなければならないと提唱しています。

 

ケアをする人とは職業人であり、健康に問題のある人に次のことを行います。

レベル1 回復を目指す

レベル2 現在の機能を保つ

レベル3 1も2もできないときは最期までそばに寄り添う

 

介護施設で働く人に、「入居者を入院させた際、何が怖いか?」と聞くと、「病院へ送った時よりも悪くなった状態で帰って来ること」と答えます。

それが現実です。前は自分でトイレに行けたのに失禁するようになる。ひとりで食事ができなくなり、歩けなくなる。褥瘡ができる。この事実を否定する人はいません。しかし、それを公共の場で指摘する人もいません。誤解のないように言っておきますが、病院で働いている人を責めているのではありません。

でも、どうしてこんなことが起きてしまうのでしょうか。ケアする人たちが、病変の部分しか見ていないからです。医療の現場でも会議でも病変の話ばかりで、患者の健康な部分はないがしろにされています。これでは本人の治る力を削いでしまいます。

ケアする人は横たわった状態でのケアしか学んでいません。だから立位でのケアが何を意味するのか理解しづらいのです。まして立位にしていいかどうかもわからない。特に病状がそれを許さないと困難に思えます。だから学生時代に習ったように臥位のケアを続け、それを受け続けた人は寝たきりとなって死んでいくのです。世界中で何百万人もの人々が本来のレベルではないケアを受けていると私は思います。

 

人間は尊厳という考えを、自分を守るために生み出しました。相手を尊重せずに排除するとき、つまり相手の尊厳をないがしろにするとき、それは私の一部を排除することでもあるのです。

 

見ないとは、「あなたは存在しない」と告げること

 

優しさ、喜び、慈愛、信頼、愛情を表すとき、人はどのような触れ方をするでしょうか。やはり赤ちゃんを触る時のようになるでしょう。技術的にいうと、広く、柔らかく、ゆっくり撫でながら包み込むように触れます。……「触れられる」ことについていえば、胎児は妊娠4か月目くらいから、痛みや喜びを伝える神経のシステムがつくられ、7か月くらいに完成すると言われています。つまり私たちは生まれる前から「触れられる」という情報を受け取ることができるわけです。それに伴う喜びと苦しみも感じることができます。私たちは生まれた直後から、「自分はいま撫でられている」と理解できる能力をあらかじめ備えているわけです。この事実から何が言えるでしょうか。

 

日本人は触れることへの渇望があるからだと思います。実際、看護師・介護士は患者に触れる、優しく抱くことをすごく喜びに感じています。ほかの国よりもその傾向は強いと思います。

「このように優しく触れてもいいのだ」という気づきが、従来のケアのあり方を見直すきっかけにもなっているようです。看護師や介護士の人たちはすごく自由に感じているのです。日本人は触れること、触れられる機会が少ないだけに、それらをすごく大きな贈り物だと感じているのだと思います。

 

歩ける状態で入院しても、高齢者だと寝たきりになるのに3日から3週間で十分です。私の推測では、病院で寝たきりになっている人のうち80~90%は、本来なら寝たきりにならずに済んでいるはずです。

これまでの経験から1日のうちで20分立つことができたら、寝たきりには決してならない、言い換えれば亡くなるその日まで立つ機能を保てることがわかっています。

 

ユマニチュードの5つのステップ

①出会いの準備[来訪を伝える]

②ケアの準備[相手との関係性を築く(友だちになる)]

③知覚の連結[心地よいケアの実施]

④感情の固定[ケアの心地よさを相手の記憶に残す]

⑤再会の約束[次回のケアを容易にするための準備]

 

私の経験から言えば、日本人がユマニチュードの技術を学ぶと、フランス人やアメリカ人より上手にできるようになります。なぜなら愛情と優しさが必要だと強く感じているからです。愛情と優しさに関する飢えを感じているにもかかわらず、社会がこれまで十分に応えてくれていなかったのです。

ユマニチュードは贈り物です。人生において自分を素直に出してもいいと、ユマニチュードは言ってくれているのです。

私が日本に来て最初に感じた言葉は「シャイ」です。内気で控えめとは何を意味しているのでしょうか。それは恐れです。愛情や優しさを人に表すことも、人から受け取ることも恐れているということです。

私がこれまで出会ってきた国の人たちの中で、日本人は最も人間関係を恐れています。それがために他者に出会うのがすごく難しい。ユマニチュードは、まさにそのような状態から脱け出す方法を示しています。だからこそ、日本人は即座に「これは解放の哲学だ」と理解するのです。

 

とっても良かった。自分が介護の仕事をするときモヤモヤしていたことが、この本ですーっと胸におちた。わたしは友だちのように彼らに接していいんだね。

この本は私にとって大切なものになる、そんな気がする。

また、日本人が触れ、触れられる機会が少ないという指摘も、そうやそうや!と思った。少ないと、身体がカチコチになるんだよ。アメリカでハグしたり、高齢者や乳幼児とスキンシップをするにつれ、身体が柔らかくなり、受け入れられる範囲も広がっていった、そんな実感がある。

日本も、キスは無理だとしても、握手・ハグの文化を取り入れてもいいのではないかしら?