愛の労働あるいは依存とケアの正義論

愛の労働あるいは依存とケアの正義論

著:エヴァ・フェダー・キティ  白澤社

 

 依存して生きる者たちにはケアが必要である。まったく無力な状態で生活全般にわたってケアが必要な新生児も、まだ身体は動くけれども弱って生活に介助が必要な高齢者も、基本的なニーズを満たしてくれる人がいなければ、生きることや成長することができない。依存は、幼少時代など長期にわたることもあれば、一時的な病気のときのように短期間のものもある。文化的慣習や偏見によって依存の軽重は異なりうるが、人間の成長や病気、老いといった不変の事実を考えれば、どんな文化も、依存の要求に逆らっては一世代以上存続することができない。ケア責任を負うのは誰か、実際にケアを行うのは誰か、ケアがきちんと行われているかを確認するのは誰か、ケアサービスを提供するのは誰か、ケアする者、される者の双方を扶養するのは誰かといった問題は、社会的、および政治的問題である。それらは社会的責任および政治的意思の問題なのだ。これらの問題にどのように応答するかによって、依存という事実がすべての市民の完全な平等という考え方と両立するかどうか、すなわち、完全なシティズンシップがすべての人々に拡大されうるかどうかが決まる。

 社会がこのようなニーズに対するケアをどう体系化するかは社会的正義の問題である。伝統的に、依存の世話を引き受けてきたのは女性である。その労働は家族の義務として、他のどんな責任にも勝るものと考えられてきた。裕福な女性や地位の高い女性には、毎日のケア労働を他の人に委ねるという選択肢もありうる。その場合ゆだねられるのは一般的に、貧しく弱い立場の女性である。貧しい女性は賃労働をしながら同時に依存の責任を引き受けており、家族内の他の女性メンバーの助けに頼ることも多い。このように依存労働がジェンダー化され、私事化される傾向が意味するのは、第一に、男性はほとんどケアの責任を共有してこなかった(少なくとも自分と同じ階級の女性ほどには)ということ、そして、第二に、政治的、社会的正義の議論は、男性の公的生活を基点とし、ジェンダー間および階級間での依存労働の公平な分担という問題をほとんど考えてこなかったということである。その基点が、道徳理論や社会理論、政治理論を規定するだけでなく、公共政策の枠組をも決定してきた。

 

例えば、耳が聞こえる子供たちの学級では、差異は耳の聞こえない子供の特性とされ、耳の聞こえない子どもは聞こえる仲間に合わせなくてはならない。しかし、そう主張するのは、耳の聞こえる子供たちもまた耳の聞こえない子供に対して差異を有しているという事実を無視することである。耳が聞こえることも聞こえないことも、どちらも本質的には差異ではない。差異とは子供同士の関係性の中にあるのだ。

 

ジェンダー平等の問題を考える時は常に、男女双方の中に存在する多様性を考慮する必要があるということだ。(多様性批判)

 

社会が平等者の集団として考えられている場合のみ可能であるような平等は、労働の性的分業の一面、つまり、男性の側に女性を包摂することにしか目を向けない。ジェンダー役割を変革しようと思うなら、女性の側の労働を再分配する戦略を追求しなくてはならない。

 

 

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