私の黒い沼

いつも感じる。

 

私の足元の近くに横たわっている、黒い、黒い、沼。

 

覗き込んでも見えないほど、黒い。

 

かつて、私が沈んでいた沼。

 

息がむずかしくて、つらくて、かなしくて、こどくだった。

 

くらくて、うるさくて、しずかだった。

 

やがて、足掻いて、腕をかき回して、少しずつ少しずつ、這い上がり、ようやく出た。

 

私はだんだん白くなっていき、それによって好かれるようになった。

 

みんなは私の沼をしらないけれど、私はわすれない。

 

わすれない。私の悲しき故郷だから。

 

わたしは、しろくて、くろいのだ。

『男を消せ!』三井マリ子 毎日新聞社

人間は、誰でも生まれてから死ぬまでの間に、他人の手を借りずには一時もたちゆかない時期がある。その間、公共サービスが十分でないとなれば、私的サービスに頼らなければならない。この私的サービスの担い手は、どこの国でも女だ。だから、家で「女手」を必要とされる女たちは、外でのキャリアを捨てたり、一日の勤務時間を短くしたりする。「揺りかごから墓場まで」は、福祉国家を目指したイギリスのスローガンだった。文字通りこの「揺りかごから墓場まで」の福祉が整っていなければ、女がのびのび活躍することはできない。

だらか、女の社会進出がめざましいノルウェーにおいては、「女手」を社会サービスが肩代わりしていることは明らかだ。

それと、もうひとつ。福祉が充実していたら、即、女の政治家が増えるかというと、ことはそう簡単ではない。女たちが、これだけ大勢政治に進出している背景には、さらに何か仕掛けがあるはずだ。

目の前の新聞に書かれている「40%を女にする方針」が、その仕掛けのひとつらしいと気がついた。私は、重くて堅い扉をこじ開ける魔法の鍵を見つけたような気がした。

 

「僕は、育児論について哲学的境地に達しているんです。人生には、競争して他人より先んずるといった価値観とは異なるもうひとつの価値観があることを、男こそ身をもって知るべきだと思うのですよ。子どもは大人とは別の時間で生きているんです。子どもの時間に合わせて生きることによって、思いやりとか情緒を大事にすることが身についていきます。僕たち北欧人は、こうした他者への尊重とか連帯に重きを置く価値観をソフト・バリュー(柔らかな価値)って呼んでいるんですかね」

「おむつを替え、台所に立ったところで男のアイデンティティはなくならないということもね。多くの男は完全に男女平等になったら女が女でなくなり、男が男でなくなると思っている。これは妄想ですよ」

「20世紀の家族革命は、19世紀の産業革命に匹敵するものです。21世紀には、男の領分が女に侵される恐怖感とか、罪の意識に悩む女とか、育休をとった僕がスポットライトを浴びるとか……こういったことをあなたと話したことも笑い話になる日がくるはずですよ。きっとね!」

 

カミラ・コレット『知事の娘』

ヘンリック・イプセン『人形の家』

 

「北欧の選挙制度である比例代表制クォータ制を内在していると言えるのです。なぜなら、比例制度とは、物事の決定にはすべての利益集団から均等に代表が選ばれ審議に関わるべきだという考え方がもとになっています。これはヴァイキング時代からの北欧社会の絶対原則なのです」

 

政党が名簿を決める比例代表制選挙では、選挙民が直接個々の政治家の当否に判断を下す機会は少ない。そこで、日本以外の各国では、選挙民が気に入らない候補を消したり、好きな候補を当選可能な上位にあげたりすることができるよう工夫をしているのだ。

 

ノルウェーもほんの30年前までは、北欧の中でも性役割の色濃く残った国だった。政治家を志し当選した女たちが、マッチョな議会の雰囲気や嫌がらせに会い、まくらに顔を押し当てて泣く夜が続いたこともそう昔の話ではない。

しかし、ノルウェーの女たちはあきらめなかった。政治への男女平等の参加をめざして考えられるあらゆる努力を続けた。選挙制度を巧みに利用した投票行動。首相まで巻き込んだ女の候補者を落とすなという選挙キャンペーン。政党の綱領にクォータ制を挿入させる党内運動。時には、違法すれすれの離れ業もやってのけた。

そして、今、ノルウェーの政治を任されてきた女たちは、その指導力を世界の政治舞台で発揮しようとしている。……

対するノルウェーの男たちが、この国を嫌って国外に亡命したなどという話は一度も聞いていない。それどころか最近、ノルウェーの男が、北欧諸国の中で病院にかかる率が最も少なく、しかも健康だと発表されている。

このように、ノルウェーを見ると女に政治を任せても大丈夫だと確信できる。大丈夫どころか、出生率はぐんぐん上がり、お年寄りは住み慣れた土地で安心して老後を過ごすことができ、過労死とは無縁の健康な男たちの多い社会になっているではないか。

このささやかな調査が、日本の政治を変えるきっかけになるならば、零下25度で鼻水を垂らした甲斐もあるというものだ。

 

この本が出版されたのが、1999年2月10日。

23年くらいたつのに、日本は亀の歩みごとく遅すぎる……。

ノルウェーも男性の領分を侵されることに嫌悪感や恐怖感を感じたのだろうということはこの本からも推測できたが、なんていうのか、合理的に考えようという努力をすることはできたのだろう、ノルウェーの男たちは。法を尊重すべき、人権を尊重すべき、などと、教育?がしっかりしていたから、日本から見れば迅速に変化させることができたのではないかな。

日本の政治の場に、女性を増やそう!という意識を、当事者の女性たちがもっと持たなければならない。これは超党的な活動のはず。3年後の選挙までに、もっと政治の勉強をしなければ。

日本の選挙制度はどうなのか?

家父長制についても、もっと学ぼうっと。

 

『食べるほど「美肌」になる食事法』木下あおい

では、腸を整えるためには、具体的に何をすればいいのでしょうか?

それには、「善玉菌」優位の腸内環境をつくることです。

私たちの腸の中には、1000兆個を超える腸内細菌が存在すると言われています。そして、この腸の中には、私たちに有益に働く善玉菌と、多すぎると悪さをする悪玉菌と、善玉菌にも悪玉菌にも変化する多数派に寄る日和見菌たちが、勢力争いをしています。

善玉菌が多数派になれば、日和見菌も味方をしてくれますから、大切なのは善玉菌優位のバランスを維持すること。それには、「発酵調味料を摂取すること」が有効です。

発酵調味料に含まれる「乳酸菌」「麹菌」「酵母菌」などの発酵菌を摂取すると、腸内を酸性に保つことができ、アルカリ性を好む悪玉菌が生息しにくい環境を維持することができるからです。

つまり、日々の食事の中に、発酵菌を意識してとりいれていくことが、美腸の秘訣になるのです。

 

◎毎日一食は、野菜、海藻を食べる。

◎食べる食材は変化をつけて、季節のものを選ぶ。

◎発酵調味料を毎日とる。

 

今の肌を変えたいと思ったとき、真っ先にすべきことがあります。

それは、自分が何をどんなふうに食べているかという「食生活」の振り返りです。

……いちばん大切なのは、とりすぎているものを控えることです。

美しさの始まりはデトックスから。腸に溜まった老廃物をきちんと排泄して、スムーズなめぐりをつくることが、美肌づくりのスタートです。

過食の状態が続いていると、胃腸が常にフル活動してしまい、肌にいい栄養を食べても、吸収する効率が悪くなるからです。

……慢性的な過食や、特定の栄養素の過剰摂取にこそ、トラブルの原因が隠されています。

日記を書く!!

 

美肌をキープするために……

◎糖質を取りすぎた場合、翌日はオフにする

◎青菜をたくさん食べる

◎海藻を食べる

 

特定の栄養が不足していたり、逆に過剰だったりすると、決まった部位に肌トラブルが出ることがわかりました。

例えば額の吹き出物や感想は、腸に老廃物が溜まっていると起きやすくなります

そんなときは腸内を活性化させて、溜まった老廃物を出す工夫をしましょう。食物繊維を多く含むオクラやモロヘイヤ、ゴボウといった野菜をしっかり食べて、デトックスすることをおすすめします。

頬の吹き出物や感想は、パンやパスタ、クッキーといった精製された小麦粉のとりすぎが原因と考えられます。心当たりがある人は、パンを玄米に、パスタを蕎麦に変えて、肌の変化を見るのも効果的でしょう。

顎の吹き出物や感想は、重たい脂をとりすぎていると考えられます。とくにヨーグルトや牛乳などの乳製品は、体質によって「合う、合わない」があるものなので、しばらく続けて肌や身体に効果を実感できないようであれば、一度お休みしてもいいかもしれません。

 

肌の綺麗な女性たちの多くがほかにも実践しているのが、「油と砂糖」に気を付けて食事すること。「いい油を選んでとる」。

砂糖のなにが問題なのか? 砂糖を取りすぎると、体内で中性脂肪に変わって蓄えられ、ぜい肉の原因になってしまいます。しかし、それ以上に問題なのが、肌への影響。砂糖を分解するには、体内のビタミンB群が必要になってしまうことなのです。もともとビタミンB群は、美肌づくりに欠かせない存在。本来は、できるだけ肌を綺麗にするために回したいところですが、砂糖を食べると、砂糖を分解するために使われてしまってビタミンB群が不足し、肌がどんどん荒れていってしまうのです。

 

精製された小麦粉、砂糖、酸化した油をたっぷり使用している菓子パンを控えることは、絶大な効果をもたらします。

 

ニキビを一週間で治す4つのステップ

昔に比べて、大人になってからのニキビの方が治りにくいと実感している方は多いと思います。

「ニキビができる=食生活が乱れている」

この因果関係、私たちは気づいていますよね。でも具体的にどう改善していけばいいかがわからないから繰り返してしまう。

でも、「ニキビをつくる原因と改善策」を知っていれば、できてしまっても落ち着いた気持ちで対応できます。悪化し続けて跡が残ってしまうようなことにならないよう、ぜひポイントを押さえておきましょう。できてしまった吹き出物は、一週間、集中的に対策をすれば、必ず効果があります。

◎2日以内の食事内容を振り返る

◎多すぎた「油」と「砂糖」を今日は控えめにする

赤くなったニキビや吹き出物は、炎症のサイン。食べすぎたものを減らすことで、自然と治っていきます。前述したように、「酸化した油」は、お肌を悪化させる最たる原因。昨日の食事で、揚げ物、炒め物、お惣菜、加工品があったかな?と振り返ってみましょう。

◎粉物をご飯にシフトする

パスタ、パン、ピザ……こういった食べ物が多くなっている時は、赤ニキビや吹き出物ができやすくなります。こうした食べ物に含まれる油、そして小麦粉に含まれるグルテンが組み合わさると、腸に負担をかけやすくなります。ニキビや吹き出物を繰り返してしまう人は、試しに1週間、次の3つを試してみてください。

◎粉物からご飯食へシフトしてみる。

◎野菜を1日の食事のいちばん最初にたっぷり食べてみる。

◎粉物は1週間のあいだ、できるかぎり減らしてみる。

◎食べるべき色は緑中心の赤、紫、オレンジ

 

 

読書メモ

『時代をきりひらいた日本の女たち』監修:落合恵子、文:小杉みのり 岩崎書店

女性たちのバトンがつながっていく、そんな感じを受けた。

私たちも精一杯走って、次の女性たちによりよいバトンをしなければならない。

 

『絵本を作る』五味太郎 ブロンズ新社

絵本を作るって、なんていうか、ガチガチになったらダメなんだな、と思った。

楽しく、ユーモアたっぷりに、こっそり真面目にやるものなんだ。

 

『食べるほど「美肌」になる食事法』木下あおい 大和書房

ベジタリアンになろうとしている中、重なるものがあって、ほうほうと。

 

『世界を信じるためのメソッドー僕らの時代のメディア・リテラシー森達也 理論社

だんだんと情報の信用度が下がっていく中、私たちは何を信じればいいのか?

むやみやたらに信じるのではなく、一つ一つ確かめて考えるしかないのだ、と思った。

事実は一つだけど、真実は多面体。言い得て妙。

 

『記憶する体』伊藤亜紗 春秋社

体ってほんとに多種多様。他者への想像力、って、なんか心とか精神面に注目されがちだけど、体も重要なんだよね。お互いに言語化できる必要があると思うし、その機会が作られるべきだと思った。

 

『記憶を消す子供たち』レノア・テア 草思社

前の子どものトラウマの本からの繋がり。深く刻みつけられた記憶は、それ以降の人生に影のように影響を及ぼし続ける。

人間の子育てって、他の動物たちと比べると本当に不安定だと思う。こわいねえ。

 

子どものトラウマ 西澤 哲

身体的虐待→性的虐待心理的虐待の順にスポットが当てられていった。

身体の傷→心の傷ともいえる。

身体の傷はやがて癒えるが、心の傷はそう簡単にはいかない。

 

子どもを傷つけないで育てることのできる親など存在しない。どんなにすばらしい親でも、意図せず子どもを傷つけてしまうものである。では、子育てにつきものの子どもを傷つけてしまう体験と、心理的虐待とは、どう違うのだろうか。

その違いは、子どもが「自分は親から愛されている」「自分は親にとって特別な存在だ」と思えているか否かにある。「親から愛されている」と思える子どもにとっては、親の言葉や態度によって傷つけられる体験をしても、それが心全体にダメージを与えることはない。その体験は、「愛されている」という確信に基づく安心感に吸収されることになる。しかし、心理的虐待の場合には、心理的な傷つき体験の繰り返しが、「愛されている」という基本的な安心感そのものを揺るがし、壊してしまっている。そういった子どもにとっては、親の何気ない言葉や態度が、重大なダメージを与えてしまう可能性がある。

 

要約

ショッキングな体験・経験は心の「異物」になる。何とかして飲み込もうとして、何度も思い出したり、他人に繰り返し話したりする(それは、無意図的にも起こる)。

そうすると、当時のショッキングな感情が少し薄れてきて、自分の中に入ってきて「過去のもの」になる。

トラウマは中々そうならず、「当時のまま」「異物」であり続ける。治療やケアサポートが必要である。

 

トラウマって?

どのような場合に、その体験の記憶やその際の反応が自己意識に組み込まれなくなってしまうのだろうか。

一つには、その体験が心の処理能力を大きく超えてしまった場合が考えられる。先に述べたように、心に大きなショックを与えた体験は、反復的な想起や感情の再体験のもつ作用によって消化吸収されていく。しかし、心にはおそらく「耐性の限界」といったようなものがあり、その限界を超えるほどの強度を持った体験を繰り返し思い出すことは非常に危険である。つまり、そうすることによって、本体である心自体が極度の混乱状態に陥り、場合によっては解体してしまう危険が生じる。そのような場合、その体験は消化吸収されず、トラウマとなっていつまでも心の異物でありつづけることになる。

 

いずれにせよ、ある体験がトラウマとなるかどうかは、その体験の持つ強さと心の処理能力との関係によって、相対的に決まって来るのではないだろうか。

 

トラウマが「瞬間冷凍された体験」である

だから何かの際に思い出すと、ものすごく生々しいまま思い出すため、苦しむ。それをフラッシュバックという。「思い出す」のではなく、「今まさに起こっているもの」と同等に感じる。過去に戻される。

 

トラウマを持つ子どもたちは感情を適切に表現することがむずかしい。

何らかの刺激が心の中のトラウマに触れ、それがきっかけとなり強い感情反応が起き、当人にも抑えられなくなる。

また、虐待環境に育ち、感情をコントロールする力を獲得する機会に恵まれなかったのもあるだろう。感情をコントロールする力は生まれながらにして持っているものではない。養育者からの声かけ、関わりによって、学んで身に付けるもの。

 

子どもにとって、情緒的な結びつき、つまり愛着の対象を持つことは非常に重要な意味を持っている。人と人との心を結ぶ愛着の形成が、あらゆる面で子どもの精神的、心理的な健康の基礎となるといえよう。特に零歳~五歳くらいまでの乳幼児にとっては、自分を養育してくれる大人に対して愛着を形成することが最大の発達課題になるといっても過言ではない。愛着が基礎となって、子どもは「自分は愛される価値のある存在だ」という自己肯定感を持てるようになるし、また、「親が悲しむからこんなことはしないでおこう」といった善悪の芽が生まれることになる。

……愛着が形成されないことの最悪の結果は、「対象の内在化」の失敗ということだろう。対象の内在化とは、自分を大切にしてくれる人を心の中にすまわせることをいい、これは愛着形成の延長線上に生じるものと考えられる。つまり、適切な愛着関係を経験した子どもは、自分を愛し、はぐくんでくれる親などのイメージを心の中に取り入れるわけである。この内在化によって、子どもは物理的に親から離れていても、心の中にすんでいる親といっしょにいることが可能となる。このあたりを、ウイニコットは「孤独にならずに一人でいることのできる能力」と述べている。

対象の内在化ができなかった子どもは、親から離れることに不安を強く感じる(分離不安)。

少し大きくなると、他者にべたべたするなど、依存的な関係になってしまいがち。

 

トラウマを治療するには、再体験、解放、再統合のプロセスが必要になる。

注意点は、再体験は本人にとってはすごい苦痛となり得ること。再体験抜きにしては、それ以降のプロセスを踏むことが難しいこと。バランスを見ていかないといけない。

 

 

うん、読んでよかった。買おうかな…。

日本には、健全な心を持つ大人がどんどん少なくなっているのかもしれないと思うことがある。不健全な心を持つ大人が子供をもつと、どうしても傷つけることが増えると思う(虐待とまではいかなくても)。……健康な心を育てられる、守れるような社会になってほしいな……。

 

 

脱「いい子」のソーシャルワークー反抑圧的な実践と理論ー 著者多数 現代書館

私たち著者5人がこのタイトルに込めた思いに少し触れてみたい。

福祉の世界には、様々な「抑圧」が蔓延し、「いい子」の支援者が結果的にその抑圧を後押ししてしまっている。そしてこの「抑圧」は、福祉現場に閉塞感をもたらし、ケアや支援の仕事を、つまらない・しんどい・希望のないものにしている。逆に言えば、「いい子」から脱し、抑圧に目をつぶらず、変えていく実践ができるならば、支援現場の実践はもっと面白く、魅力的になる。これが私たちの仮説である。

 

「いい子」というのは「世間や体制、社会システムにとって都合のいい子」なのである。

 

 

社会的弱者を支援するのは「本質的な仕事である」と建前で言っていても、それに見合うだけの実質的評価や金銭的保証がなされていない。これは社会的弱者を低く評価しているだけでなく、社会的弱者にかかわる仕事をしている人をも低く評価している日本社会の抑圧構造の顕れではないのか。

 

抑圧の内面化

 

反抑圧ソーシャルワークでは、人々の「生きにくさ」を構造的な力の不均衡から生まれるものと捉える。あなたの能力が不足しているから、我慢が足りないから、「生きにくい」のではない。あなたにそう思わせるような社会的抑圧や構造的な差別が蔓延していて、かつ自己責任論や弱肉強食といった新自由主義的な考え方がそれを後押しし、放置されているから、自殺者も社会的ひきこもりも多い、希望のない日本社会が固定化されているのである。

 

そんな社会はいやだ!こりごりだ!ちょっとでも魅力的な社会に変えたい!その思いを実現し、「生きやすい」社会をつくりだすために、権力の自己省察を怠らず、「変えられないもの」と思い込んでいる法や制度、社会規範さえも、「本当にそれでよいの?」と批判的に捉え直し、他の人とつながりながら、建設的批判やそれを実現するための社会的・政治的活動をも行う。

 

日本の日常的な文脈において、「抑圧」は人々が日々社会で感じている様々な「生きにくさ」や、「モヤモヤした違和感」、「やりきれなさ」、ひいては「絶望感」として現れてくる。

 

ソーシャルワーカーとして共感性を持つ自分のなかに、傲慢で特権に鈍感な自分が共存していることを意識し続けることは、とても大事である。自分を恥じるような体験に正面から向き合えたとき、内省的省察が可能となり、自己成長へとつながる。

 

「日常の中の政治活動(小文字のpのpolitics)」

 

支援者自身が、自らを脅かす抑圧を「しょうがない」と受け入れたとき、支援を必要とする人に対し抑圧的なまなざしが向いてしまう。それが抑圧の再生産である。組織の機能不全や多数派の流れに疑問を持たない、もしくは異論の声をあげられない福祉職者が抑圧の一部となったとき、支援を必要とする人たちもまた、その抑圧構造に否応なくからめ取られていく。

……人が社会や組織の一員として公平で尊厳ある扱いを受けられない仕組みに対しては毅然と「No」を表明する姿勢を示すこと。他者の心からの訴えやSOSに共感できないとき、それを阻んでいる壁は抑え込まれた私たち自身の声かもしれない、と自らを振り返ること。

……「自分の『あるがまま』が受けいられず尊重されないときに、他者の『あるがまま』を受けいられるか?」この問いを個々の職員の良心や職業倫理の問題に留めず、組織そして社会の責任として語り合う場が、今求められている。

 

自分の手元に置いておきたい本。

自分が小さい時、とーっても「いい子」だったので、とーっても苦しかった。

そんな思いがずっと胸の奥にあるので、この本はすーっと胸の奥まで来てくれたように感じる。みんな何かしらの抑圧を感じている。その抑圧を仕方がなく受け入れ、その抑圧を他人にも押し付ける・・・そんな悪循環は嫌だなと思った。

「NO」というのは本当に勇気がいるが、皆のためを思えばそれこそが望ましいのだろう。

日本政府は国民をコントロールしたいという欲が強まっているように感じる。

それに対して、どう向かい合うか。

カナダに留学してみたいなあ!ああ~~

 

 

 

人は皮膚から癒される 山口創

スキンシップのもっとも原初的な意味は、生まれたばかりの赤ん坊の体温が低下しないように、養育者が触れて保温することだった。もともとスキンシップは生命を維持するために必要だったのだ。一方でそのように温かい身体で触れられることは、情動レベルでは赤ん坊にとって、養育者に守られて安心できる快の体験でもあった。抱かれるたびに安心することを幾度となく繰り返す経験をした結果、それは不安や恐怖、ストレスなどの不快な心を癒す行為と結びついていった。さらにそこから発展して、触れて安心させてくれる人に特別な愛情の絆である愛着関係を築いて、その関係を強め、そういう人を信頼するようになった。これが認知レベルである。

身体レベル→体温の保持 情動レベル→安心、快 認知レベル→愛着、信頼

 

ストレスは体温を低下させ、それは代謝や免疫機能まで弱めてしまう。よく「顔面蒼白になる」とか「肝を冷やす」というが、実際に体温が下がっているのだ。

 

うつ病などの感情障害の人は、健常者よりも汗をあまりかかない傾向がある。その結果体温の調節がうまくできず、深部体温が高くなってしまうという。

 

ハリー・ハーロウ(米国の心理学者)のアカゲザルを用いた実験……

……この実験結果から、ハーロウは、愛着は授乳による欲求の充足よりも、むしろ「柔らかく温かい肌の接触」によって形成されると主張した。つまりスキンシップの重要性を立証したのだった。愛着の根本には「皮膚への温かい感触」による慰安や安心感が存在すると考えられる

 

もともと日本人のスキンシップというのは、奇妙であるとよくいわれる。

幼少期こそよく触れているものの、子どもが成長するとまったく触れなくなってしまうのだ。成人後は、握手やハグの文化もないため、恋人や夫婦以外の人と直接触れることはほとんどなくなってしまう。

ところがかつての日本の文化では、このような成人のスキンシップの不足を補うための装置が備わっていたと思う。それは皮膚の交流である。日本人は常に人と人の交流の中に暮らしの中心を置いていたため、直接的に皮膚を接触しなくても、皮膚は他者を常に感じていたのではないだろうか。……脳は周囲にいる親しい人を、あたかも自己の身体の一部であるかのように感じている。だからこそ昔の日本人は、わざわざハグや握手をして境界を解く必要がなかったのだ。

ところが、近年は親しい人たちとの生活の場であるコミュニティが崩壊し、その一方で欧米流の「プライバシーの保護」が重視されるようになり、互いに干渉しないことをよしとする風潮が強まった結果、人との境界感覚はさらに強まった。また、暗黙の信頼関係をベースに営まれてきた人間関係は、相手を信頼しないことを前提とした関係、すなわち契約関係に置き換わっていった。

それに追い打ちをかけるように、近年ではSNSの普及によって、面と向かって交流しない関係も急速に増えた。そこでは境界としての皮膚の感覚を介さずに、直接的に情報が目から脳にインプットされる。

 

……このような流体としての境界と似た概念を、日本語では「あわい」という。

私たち日本人の境界感覚というのは、世界的に見ても特異だと思う。境界を曖昧にすることを美徳とするのだ。

……「あわい」という言葉は、もともと「あう(会う・合う)」が語源だという。つまり、「分け・隔てる」ための境界なのではなく、むしろ相手と境界を共有することを前提にした言葉なのである。日本人にとっての境界は、「自己」と「他」というような互いに峻別することによる排斥関係なのではなく、むしろ2者の境界を曖昧な状態にすることで未分化な混沌が生まれ、その中にこそ自己を感じられるといえばよいだろうか。

 

「剛体」としての境界は、大地、海、大気の各々が確固とした境界に区切られ、独立して存在している、いわば各々の境界が閉じている状態である。それに対して「流体」としての境界は、各々が流動的に変動し、互いに影響を与え合う、いわば境界が拓いている状態である。……人と人が境界を拓いてつながるためには、「流体」のように柔軟な境界が必要であろう。相手と対面して「見て」「話し」「触れる」といったことを通じて、境界で起こる現象を感じられることが大切である。皮膚を通して相手を感じると、それに自分の身体が反応してホルモンや自律神経などの変化が起こる。するとそれに相手の身体が反応する。こうして互いの身体が共振することでコミュニケーションが深まっていく

 

受け手の境界を拓き、深い部分で身体を共振させ、その結果として心の変化も起こしてくれるのが本物のマッサージ師だと思う。だから本当の意味で腕のある施術者は、優れた心理カウンセラーであるといえる。

 

「流体」「共振」というワードに心ひかれた。

日本人はスキンシップを喪失して……、男性はより一層喪失しているだろう(女性は割りかし女性同士でのスキンシップがある)。男性はその喪失感を恋人を得ることで埋めようとするが、恋人を得ることがうまくできず、その苛立ちや悔しさを女性たちにぶつけてしまうのではないか?と考えるようになった。しかし、その場合、ここで想定されている「スキンシップ」は余りにも幅狭い。本来は、人間同士であればお互いに癒し合える手段なのだ(握手、ハグ、など)。日本社会でのスキンシップ不足を解消することが大切なのではないかなあと思う……。それと同時に、ジェンダーバイアスを失くしていくことも大事だね。