僕にもできた!国会議員 山本太郎 雨宮処凛

ばんばん引用。

 

2017年の自殺者は2万1321人。

この状況について、厚生労働省は平成30年版『自殺対策白書』の中で、15歳から34歳までの若い世代で死因の第一位が自殺となっているのは、先進国では日本のみであり、その死亡率も他の国と比べ高いものとなっている、と記している。

過去1年以内の自殺未遂経験者は、推計53万5000件にも及ぶ(日本財団調査から)。

この数字に含まれていない人々もいるとするなら、どれくらいの死にたい人々がこの国に存在するのだろう。

 

この世は地獄、と言っても差し支えないだろう。

その地獄を軽減するために政治がある。

でも、政治が機能していなければ、地獄は深まる。

私たちは今、死にたくなるような国、社会で生きている。

 

日本経済団体連合会経団連)は2025年までに消費税を19%まであげろ、という提言を政界にしています。自分たちの税負担をもっと下げろ、ということですね。

では私たちは消費税をどのくらい負担しているか。まず、消費税は超不公平な税です。紙おむつからダイヤモンドまで同じ税率がかかる。ぜいたく品であろうと日用品であろうと同じようにかかるということは、収入が少ない人ほど負担が重くなる。例えば消費税5%の時、年収1500万円以上の負担率は1.1%くらいですが、200万円未満になると負担率は5・5%。消費税率があがっていくたびに不公平感はもっと広がります。これは、日本経済新聞電子版にあるシミュレーション数値です。

 

消費税を廃止すれば、一か月分の所得をみんなに返せるイメージです。

消費税増税で誰に一番影響があるかというと、若い世代です。5%から

8%に上がった2014年には 、20代の貯蓄ゼロ世帯が急激に増えました。47.7%から62.2%になった。

 

3%増税した分を全額社会保障に使うと言っていたのに、社会保障の充実に使われたのはたったの16%だけだったんですよという話をしたりすると、反応がいい。

 

議員を動かすときにどうすればいいか。もちろん気持ちで動いて下さる議員もいますが、それは少数派です。多くはなんだと言ったら、票か金じゃないと動かないということです。「これくらいの人数があなたの選挙区に住んでいて、あなたが頑張ってくれるんだったら私たちは応援者になる用意がある」ということをどう可視化していけるかが勝負ですね。

 

万が一に備えて国防を考えなければいけない。国民の生命、財産を守るために専守防衛ということは続ける。

この安全保障をけん引するのが誰かといったら、僕は自衛隊だと思っています。例えば災害救助、災害対応のスペシャリストとして、世界中の災害が起きた国に対して率先して協力する。一番に救出に向かって、自衛隊のスキルを惜しみなく発揮して災害対応にあたる。

それによってどうなるか。どこかの国が不穏な動きをして、日本側に圧力をかけたり攻撃しようとしても、自衛隊にお世話になった国々は日本側についてくれる。そういった国際貢献をどんどんやる。自衛隊の海外派遣の在り方を変える。

アメリカの世界戦略の二軍として自衛隊を派遣するのは一切やめて、災害支援に限って積極的に海外に出す。そうやっていくことが、自然と安全保障にもつながっていくと思うんです。

また、安全保障を語るのであれば、当然、食料安全保障というものも語らなくちゃいけない。人間が生きる上で、空気、水、食料は絶対に必要です。

日本の自給率は圧倒的に低く、もう4割を切って38%です。カナダは264%、オーストラリアは223%、アメリカが130%。「国土の広さが違うだろ」と言う人もいるかもしれないので、もう少し小さい国土で見ても、フランスで127%、ドイツで95%、同じ島国のイギリスでも63%。

 

エネルギー安全保障というのも当然あります。

 

代わりに何があるんだと言ったら天然ガスです。天然ガスは、今、もう電源構成の5割に迫っています。アジア圏内からも調達できるし、価格もどんどん安くなっています。効率のいい天然ガスを使っていきながら乗り越えていくしかない。それと同時進行で自然エネルギーと言われるものでやっていく。

 

僕が目指す社会は、究極は、頑張らなくても生きていける世の中です。もう、「これトチったら俺の人生終わりだな」みたいな世の中はやめにしたいんですよね。そういう状態が続く人生は地獄ですよね。「まあいいか」みたいな余裕がほしい。

何をもって頑張るかは個人差があるので、それを測るのは難しい。でも、頑張れない時に頑張ってもろくなことがないから、ゆっくり休んで、それを国が支えて、そろそろ力が湧いてきたという時に頑張ってもらう方が、ずっと生産性は高いですよ。だって、無理しても壊れるだけだもん。

だから、「いいよ、頑張らなくても」という世の中になればどれだけいいか。今はあまりにも地獄すぎると思うんです。

 

山本太郎の成果、議員になってからの過程がわかりやすく書かれている。

山本太郎さんに初めて選挙の面白さを教えてもらったんだよなあ。議席をあげる力って本当はすごいんや、でもそれを知らない国民がたくさんいるんやなあ、と思った。

もっと国会議員と距離が近くなって、どういう人なのかわかりやすくなればいいよね。

 

 

 

高校生からのマルクス漫画講座 

マルクスの人生を追いつつ、世界で共産主義と資本主義がどうしのぎを削っていったかをザクっと描いた本。マルクスも男性優位には疑いを持たなかったんだなあーと苦笑してしまったけど、いろんな苦労をしたのだな。共産主義の細かいとこは置いといて、わたしが注目したのは、労働者に資本者に対抗せよと盛り上げたことかな。そうやって、あちこちでストライキやデモが起こって、実際に制度が変わって行ったんだものね。長い時間に洗われて、今や労働権利は当たり前になったけれど、すごく大事な権利だなと思った。

 

新聞で読んでおお、と思った文章を引用。

 

成果・貢献求める社会

 

私たちが暮らす資本主義の社会は、働いて成果を上げることを徹底して求めます。゛ただ居るだけ”には非常に厳しい社会です。

精神科デイケアを訪ねる人の多くは、”自分は何も役に立っていない”という思いを非常に強く持っているーー「お前がいることで、どれくらい社会や会社、家庭に貢献しているんだ」「いくらなんだ」この新自由主義的な感覚は、私たちの中にも深くあるのではないかと問いかけます。

(しんぶん赤旗)

 

結局のところ、特定のキャラクターが悪いのではない。

『王様』だから悪いのでもない。『独裁者』だから悪いのでもない。

上に立つ者たちは下の者に対して傲慢や怠慢がどうしても出てしまうんだと思う。

私ももし、上に立てば権力乱用ばんばんしちゃうかもしれない。そんなにできた人間ではないから、そう思う。

産業社会が出たばかりの頃は、その権力乱用を押さえつけるルールがまったくなかったから、労働者は良いように使われたんだろうな。労働者たちは団結して、闘って、労働者の権利を得たんだよね。それは上の者たちにとっても憎きものでありながら、内心ではありがたかったのではないだろうか。だって、制止をかけてくれるものが全くない状態で、自らの良心のみで全て善行をするのは難しいだろうし。

人々の良心を水晶化したのが、憲法や権利なのだろうね。人はつい良心を忘れたり、見失うときがあるから、常に良心を社会内で保てるように希望を法などに託したのではないだろうか。……

 

まだ共産主義はよくわからないけど、追々すこしずつ理解を深めていくことができたらいいな。

 

 

 

 

就活のまえにー良い仕事、良い職場とは?ー中沢孝夫

 世の中には無数の仕事と職場がある。その中から何を選ぶのか。どこが自分には向いているのか。就職情報誌や企業のホームページに惑わされずに、働くことの意味を考える、就活一歩手前の道案内。

 

就活って何?……と前から私にとっては難しい課題だった。

現代では、「どのような仕事をしたい?」と聞かれるのが本当に多くて、具体的な答えを出せないと、何かしら罪悪感を感じる。

短期ながらも複数の仕事をしてきて思ったのは、自分は長期的に成長できる仕事を求めているのだということ。仕事の範囲が限られていて、そこからはみ出ることが難しい仕事には惹かれないのだ。人材育成。それと、労働条件。仕事内の人間関係。

もう本当に基本の基本なのだけど、結局のところそれが大事なんだよね。

 

いま、前の仕事を終えて一番反省していることは、”信頼関係を壊した”ということ。

コロナが原因の一つとも言えるけれど、やっぱり利己的になって、人間関係の基本を忘れてしまった自分が悪い。一度壊れた信頼関係を修復するのは、本当にむずかしい。

どれだけ仕事を頑張ろうが、他のルールを守ろうが、信頼関係を壊したら、パーになる。それを痛感した。逆に言えば、仕事にミスがあっても、強い信頼関係があれば、失敗を乗り越えていくことができる。

 

だから私は、次の仕事では、『仕事を長期的な目線でコツコツと続け、成長し続ける』、『信頼関係を大切にする』を達成したいのだ。それと同時に、政治を見る目を磨き、自分の権利を守るために行動を起こせるようになりたい。

 

 

自分らしさ

自分らしさとは何なのか理解するためにはどうしたらいいのか。

日常生活の中で、微妙に感じる違和感、抵抗感を言語化すること。

無意識的に惹かれるものを素直に受け止め、追及していくこと。

自分とは?と脳で考えても、何もわからない。

外に出て、色々触れたり、話したりして、得られた僅かな示唆を支えに、

自ら手繰り寄せるものなのだ。

 

……と25歳になって、やっとわかってきた。

菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力― アン・アリスン

印象に残った文章をかいつまんで。

 

日本において、精神性、霊性という古さと、デジタル/バーチャル・メディアという新しさが混合されていることは、テクノ‐アニミズムを実証している。

 

異世界との非乖離は、日本が文化のルーツに執着しながら近代化へ突き進んだことを、他の何よりも象徴している、という。

 

進駐軍の廃棄場を清掃する代わりに、ブリキ缶を無料でもらうという交換条件が出され、玩具製造者はおもちゃを製造できた。当局からの指令と、戦争直後の占領軍の要求のもと、玩具製造は輸出業における「自由市場」に再参入した日本での最初の事業となった。

 

1990年代から、2000年代初めは、不安の時代である

 

子供達は、父親がほとんど不在の家庭でしつけと愛情を混同あるいは融合させた母親に育てられ、地域社会と交わらず、「子供達の心を見ていない」教師に教えられる

 

「親しさ」の定義はかつてないほど不透明になっている

 

専門家は引きこもりの特徴は、悲哀、ストレス、希望の欠如(生きる意欲の欠如)を強く感じていることにあるという。

 

子供達が部屋から出てこないのは、本当に望んで引きこもりたいからではないということがわかる、ただ、ほかに「自分の居場所」が見つからないのだ。学校や塾の環境や脱産業化後の実力主義(延々とつづく勉強、暗記、試験など)が彼らの心身からエネルギーを吸い取ってしまう。

 

「親密さの中における疎外感」における、人と人、人と社会、人とリアリティとの距離はどのようなものか?

 

キャラクターは都市化、核家族化、少子化で分断された現代の消費者にとっての「人間関係のライフライン」であり、人々のトーテム、お守り、「シンボル作用」となっている。

 

日本人の遊び道具が、21世紀型資本主義の一部でありながら、創造世界では資本主義がもたらす弊害の解毒剤になるという矛盾する要素をいかにはらんできたか

 

たとえば、神道では、人間も自然の一部にすぎず、人間に使われ従属させられるのではない自立した動物たちの物語が民間伝承にあふれている。日本人はまた作り出したものに「不思議な感情」を抱き、長く使われた道具やたとえば古木や巨石などの自然のものは、精霊や妖怪になると古くから信じてきた。そういった「日本人のやさしさ」は「われわれの精神文化」の特徴である、と長尾は言う。そういった日本人が伝統的に持っている心性が、ポケモンという生き物に反映されて、21世紀を生きる子供達の自意識に意図的に訴えかけられている。

 

「かわいい」の一面である「やさしさ」(長尾剛が言う日本文化の感性の核にあるものを表現する言葉)

 

愛着ある商品とのつながりについて語り、またモノとつながろうとすることは、モノにかつてないほど依存している私たちの社会での生き方を示している。だが、モノを獲得することの魔術によって、人は二つに引き裂かれると太平は見ていて、私もその見方に賛成する。一つは、自分自身をモノ化して考える時代には、人間の経験の豊かさまでもがモノに還元されてしまうことだ。もう一つは、「生き物のような」モノにエネルギーと愛着を注ぐことが、人間の疎外感と孤立化を深め、非人間化を進めてしまうことだ。マルクスはかなり早い段階で資本主義がこの傾向に陥るとみていた。労働と人間関係の力と価値を商品に反映するうちに、人は疎外され非人間化される、ということで、マルクスはこれを「商品フェティシズムと呼んだ。

 

 

 

アメリカ人の著者から見た日本の遊び道具についての論考は、なかなか興味深いものだった。外から見たら、そう見えるのか…という発見。自分も子供の時、ポケモンやマリオに触れていたから、身近に感じながら、読めた。何かイベントがあるたびに、トイザらスに親に連れてきてもらって、ずらっと並んだゲームを眺めて、ワクワクしつつも、どこかで冷めていた自分を思い出す。ゲームをやっている時は、あんなに熱中しているのに、飽きたらすぐぽいっと物置行き。そんな行動に自分ながらちょっと怖かった。今の子供達はその傾向がますます進んでいるんだろうか。そもそも、現代では買わないとできない経験が本当に増えた。お金ありきの社会は、資本主義だ。お金との関係を見直す時期に来ているのだろうか?

 

日々の流れの中で

岡本太郎のこの言葉がとても好きだ。

 

 たとえ、自分がうまくいって幸福だと思っていても、世の中にはひどい苦労をしている人がいっぱいいる。この地球上には辛いことばかりじゃないか。難民問題にしてもそうだし、飢えや、差別や、また自分がこれこそ正しいと思うことを認められない苦しみ、その他、言いだしたらキリがない。深く考えたら、人類全体の痛みをちょっとでも感じとる想像力があったら、幸福ということはありえない。

 だから、自分は幸福だなんてヤニさがっているのはとてもいやしいことなんだ。

 ぼくは幸福という言葉は大嫌いだ。ぼくはその代りに「歓喜」という言葉を使う。

 危険なこと、辛いこと、つまり死と対面し対決するとき、人間は燃え上がる。それは生きがいであり、そのときわきおこるのがしあわせでなくて”歓喜”なんだ。

 

――『自分の中に毒を持て』より

 

この言葉が思い出されてくるのは、日本全体が混乱の中にあるからだと思う。まだ癒えていない東日本大震災、終わらない原発事故、幾多もの大地震、台風被害……NEWSに災害映像が流れる日々が続いている。そして、世界でもあれこれと描き始めたら終わらないくらいに色々ある。しかし、そんな中で、わたしは平凡に仕事して、本読んで、食べて、寝ている。その圧倒的な違いに戸惑い、どう感じればよいのか分からなくなる。私は一応、安定した生活に就けている。家族との関係も一応良好である。恋愛には疎いが、一応信頼できる友達もいる。しかし、自分の狭い世界からちょっと頭をだして覗いてみると、困り、悲しみ、苦しんでいる人たちが沢山いる。私はそれを無視したくないと思いつつも、どうすればよいのか分からず、頭をひっこめてぼうっとしているうちに、また日常に戻るのである。

 

チェルノブイリ祈り』『苦海浄土』も読んでいて、同じ様に思った。あまりにも圧倒的な悲しみ、苦しみを受け止めきれず、ぼうっとしてしまう。ただ、そういう経験をした人たちは本当の本当のしあわせとはなになのかを理解するのだろう(永遠に取り戻せないものだけれど)と思う。………

 

私にできることは、まず忘れないということ。そして、祈ること。次にできることを探すことなのだろう。

障害者の経済学

『障害者の経済学』

著:中島隆信

 

印象に残った文章をかいつまんで。

 

資本主義の世の中では、人間が欲求を持つのは当然で、それを充足すべく努力することにより満足が得られ、社会が進歩すると考えられている。ところが、仏教の考え方では、そうした努力をすればするほど欲求が膨らむので永遠の満足は得られないとし、欲求を減らし満足を高めること、すなわち…”小欲知足”こそが幸福に至るための道だと諭す。

障害児の子育てについて、親が抱え込もうとする原因のひとつは、子供の障害に対する親の”こだわり”にあると考えられる。障害を恥だと思う気持ちは、「この子が健常児であってほしい」という欲求の表れであり、障害児の抱え込みは「この子の世話は私にしかできない」というこだわりとはいえないだろうか。

 

私は”こだわりを捨てる”ことは”吹っ切れる”ことだと考えている。それは突き放すことでもなく、ほったらかすことでもない。子供の障害を受け入れ、そのぞんざいを認めるということである。これは子供の自立にとっても望ましい結果をもたらすだろう。子供は、親の”欲求・充足スパイラル”による呪縛から解放され、自らの意思に従って行動することができるようになるからだ。

 

最も効果的な弱者対策は弱者をつくらないことである。

 

弱者を生産の場から排除することは、共生社会の実現といった人道的見地から望ましくないことはもちろんのこと、限られたリソースを効率的に活用するという経済学的見地からも得策とはいえないのである。

 

それほど熱心には読み入らなかったが、ちらほらと良いと思った文章があった。脳性麻痺の子供を持つ経済学者であるので、お金の話をもっとしてくれるかなと思ったら、そうでもなかったように見受けられた。障害者雇用特別支援教育などのお話もある。

私も、特別支援教育について勉強したことがあるが、特別支援学校の授業のムービーを見ていて、確かに素晴らしいし有意義なことであるとは思うが、費用に対して見合うのだろうか……と考えてしまうことがしばしばあった。普通校では、1クラス30人くらいに1‐2人の先生が付くのに対して、特別支援学校では、少人数教育が必須なので、教員数が圧倒的に多く、その分お金もかさむ。

教育は、人道的な見地と経済的な見地の間で揺れ動く、難しいものだと思う。