「ユマニチュード」という革命ーなぜ、このケアで認知症高齢者と心が通うのかー 著:イヴ・ジネスト、ロゼット・マレスコッティ 日本語訳:本田美和子 誠文堂新光社

ユマニチュードは認知症の人や高齢者に限らず、ケアを必要とするすべての人に向けたコミュニケーションの哲学であり、その哲学を実現させるための技法です。

「見る」「話す」「触れる」「立つ」という人間の持つ特性に働きかけることによって、ケアを受ける人に「自分が人間である」ということを思い出してもらいます。そして、それが言葉によるコミュニケーションが難しい人とのあいだにも、ケアを通じて絆を結ぶことを可能にします。

 

自分が自分の尊厳をどう感じるかは、相手から自分に向けられている眼差しによって定まります。

 

正しい距離感をとっているか、を気にする前に考えるべきことは、いずれ亡くなるであろうこの高齢者はいま何を必要としているか?です。彼や彼女が求めているのは優しくされることであり、いたわりであり、つまりは愛です。

 

「視覚のトンネル」という落とし穴

呼びかけても私が見えておらず、聞こえていないから反応しない。彼女のような状態は認知症の患者によく見られます。「視覚のトンネル化」と言われているもので、……彼女はトンネル越しに周囲を見ているのではありません。つまり、これは視覚の問題ではないのです。耳も聞こえています。機能には問題がなく、フィルターがかかっているだけなのです。いわば、「人間関係上の視覚障害聴覚障害」であり、彼女と人間関係を成立させない限り、見えたり聞こえたりしないのです。

 

ヘンダーソンの理論に並んで、ケアに関わる人に影響を与えているのは、心理学者のアブラハム・マズローの提示した欲求5段階説、いわゆる「マズローの法則」です。ヘンダーソンと同じように人間の基本となるニーズとして「生理的欲求から安全への欲求、愛情、尊敬、自己実現へのニーズ」について言及しています。

彼はこれら5つのニーズをピラミッド構造として示しており、人間の本質についてのモデルとして看護学校でも教えられています。私は、これに異議を唱えます。

まずピラミッドは何を語っているのでしょうか。生理的欲求から安全への欲求、愛情、尊敬、自己実現へのニーズが階層上にあるということです。

つまり、基礎となる生理学的なニーズが満たされていないと次のステップには行けないのです。ニーズにはヒエラルキーがあるからです。この考えは時代に合っていません。フランスでは飢えて死ぬ人よりも愛が欠乏して死ぬ人の方が多い。日本人の自殺者は年間約3万人もいます。お腹がすいているから死ぬのでしょうか。いえ、おそらく、孤独だからです。生理的ニーズが満たされていても、私たちは生きることはできないのです。したがって、このモデルは実情とずれています。

 

社会にはさまざまな価値があります。ユマニチュードにおいては、自立と自由と依存を掲げます。誰かに依存していなければ私たちは生きていけない。これも重要な価値として定義しているのです。自律を可能にする依存。ここにユマニチュードの革命性があります。

依存は価値のないもの、回避すべきものとして捉えられがちです。しかしユマニチュードにおいては、高齢者が依存する状態をマイナスとは捉えず、依存こそが力になり得ると考えています。

 

私は、「自分で選ぶことができる能力がある。もしくは選べる可能性がある状態」を自律と呼びたいと思います。

……自律の尊重。これはユマニチュードが最も大事にしている価値観です。自律とは本人が自分のために自由に選び決定する能力です。……私は、人はどんな状態になっても何を欲しているか、自分にとって何が好ましいかを伝えることができると思っています。ですから、最期のときまで自律は尊重されなければならないと提唱しています。

 

ケアをする人とは職業人であり、健康に問題のある人に次のことを行います。

レベル1 回復を目指す

レベル2 現在の機能を保つ

レベル3 1も2もできないときは最期までそばに寄り添う

 

介護施設で働く人に、「入居者を入院させた際、何が怖いか?」と聞くと、「病院へ送った時よりも悪くなった状態で帰って来ること」と答えます。

それが現実です。前は自分でトイレに行けたのに失禁するようになる。ひとりで食事ができなくなり、歩けなくなる。褥瘡ができる。この事実を否定する人はいません。しかし、それを公共の場で指摘する人もいません。誤解のないように言っておきますが、病院で働いている人を責めているのではありません。

でも、どうしてこんなことが起きてしまうのでしょうか。ケアする人たちが、病変の部分しか見ていないからです。医療の現場でも会議でも病変の話ばかりで、患者の健康な部分はないがしろにされています。これでは本人の治る力を削いでしまいます。

ケアする人は横たわった状態でのケアしか学んでいません。だから立位でのケアが何を意味するのか理解しづらいのです。まして立位にしていいかどうかもわからない。特に病状がそれを許さないと困難に思えます。だから学生時代に習ったように臥位のケアを続け、それを受け続けた人は寝たきりとなって死んでいくのです。世界中で何百万人もの人々が本来のレベルではないケアを受けていると私は思います。

 

人間は尊厳という考えを、自分を守るために生み出しました。相手を尊重せずに排除するとき、つまり相手の尊厳をないがしろにするとき、それは私の一部を排除することでもあるのです。

 

見ないとは、「あなたは存在しない」と告げること

 

優しさ、喜び、慈愛、信頼、愛情を表すとき、人はどのような触れ方をするでしょうか。やはり赤ちゃんを触る時のようになるでしょう。技術的にいうと、広く、柔らかく、ゆっくり撫でながら包み込むように触れます。……「触れられる」ことについていえば、胎児は妊娠4か月目くらいから、痛みや喜びを伝える神経のシステムがつくられ、7か月くらいに完成すると言われています。つまり私たちは生まれる前から「触れられる」という情報を受け取ることができるわけです。それに伴う喜びと苦しみも感じることができます。私たちは生まれた直後から、「自分はいま撫でられている」と理解できる能力をあらかじめ備えているわけです。この事実から何が言えるでしょうか。

 

日本人は触れることへの渇望があるからだと思います。実際、看護師・介護士は患者に触れる、優しく抱くことをすごく喜びに感じています。ほかの国よりもその傾向は強いと思います。

「このように優しく触れてもいいのだ」という気づきが、従来のケアのあり方を見直すきっかけにもなっているようです。看護師や介護士の人たちはすごく自由に感じているのです。日本人は触れること、触れられる機会が少ないだけに、それらをすごく大きな贈り物だと感じているのだと思います。

 

歩ける状態で入院しても、高齢者だと寝たきりになるのに3日から3週間で十分です。私の推測では、病院で寝たきりになっている人のうち80~90%は、本来なら寝たきりにならずに済んでいるはずです。

これまでの経験から1日のうちで20分立つことができたら、寝たきりには決してならない、言い換えれば亡くなるその日まで立つ機能を保てることがわかっています。

 

ユマニチュードの5つのステップ

①出会いの準備[来訪を伝える]

②ケアの準備[相手との関係性を築く(友だちになる)]

③知覚の連結[心地よいケアの実施]

④感情の固定[ケアの心地よさを相手の記憶に残す]

⑤再会の約束[次回のケアを容易にするための準備]

 

私の経験から言えば、日本人がユマニチュードの技術を学ぶと、フランス人やアメリカ人より上手にできるようになります。なぜなら愛情と優しさが必要だと強く感じているからです。愛情と優しさに関する飢えを感じているにもかかわらず、社会がこれまで十分に応えてくれていなかったのです。

ユマニチュードは贈り物です。人生において自分を素直に出してもいいと、ユマニチュードは言ってくれているのです。

私が日本に来て最初に感じた言葉は「シャイ」です。内気で控えめとは何を意味しているのでしょうか。それは恐れです。愛情や優しさを人に表すことも、人から受け取ることも恐れているということです。

私がこれまで出会ってきた国の人たちの中で、日本人は最も人間関係を恐れています。それがために他者に出会うのがすごく難しい。ユマニチュードは、まさにそのような状態から脱け出す方法を示しています。だからこそ、日本人は即座に「これは解放の哲学だ」と理解するのです。

 

とっても良かった。自分が介護の仕事をするときモヤモヤしていたことが、この本ですーっと胸におちた。わたしは友だちのように彼らに接していいんだね。

この本は私にとって大切なものになる、そんな気がする。

また、日本人が触れ、触れられる機会が少ないという指摘も、そうやそうや!と思った。少ないと、身体がカチコチになるんだよ。アメリカでハグしたり、高齢者や乳幼児とスキンシップをするにつれ、身体が柔らかくなり、受け入れられる範囲も広がっていった、そんな実感がある。

日本も、キスは無理だとしても、握手・ハグの文化を取り入れてもいいのではないかしら?

 

『働くミレニアル女子が身につけたい力ーEMPOWERMENTー』著:大崎麻子

「与えられた仕事を一つひとつ誠実にこなすこと。それが次の仕事のドアを開けてくれる」 

 

女性の幸せ、男性の幸せ、などというものはありません。あるのは人として幸せかどうか、です。 

 

エンパワーメントとは、単に「自己責任で生きる」ための術を身につけるのではなく、地域や社会と繋がり、色々な人たちと「助け合いながら生きる」「より良い社会を築いていく」ための術を身につけることを提唱する考え方です。 

 ……

「自分の意思を持ち、自分で決めながら、自分らしく生きていこう」と決心したら、エンパワーメントの4つの要素を思い出してください。

健康、教育、経済力、社会・政治参画

 

WORKを単に「職業」や「収入源」といった「経済活動」として限定的に捉えるのではなく、「人間が幸せに生きていくために必要な活動」として、幅広く捉えようというのです。

そして、WORKを上図の4つに分類しています。

①有償労働(Paid Work):報酬のある仕事・職業

②無償ケア労働(Unpaid Care Work):主に家庭内で行う、家事、育児、介護、看護などの人の「お世話=ケア」に関する労働

③ボランティア活動(Volunteer Work):PTAや町内会などの地域活動や社会奉仕・社会貢献活動など、報酬のない労働

④創造的な活動(Creative Work):音楽やアートなど、自分の創造力を使って、何かを生み出したり、表現したりする活動

 

まずは、

①「事実」と「意見」を区別する力

②「根拠」を言葉にする力

というクリティカル・シンキングの基本的な力を身に着けましょう。

それに加えて、

③「聞き流す力」

を身につけておけば、自分で納得できる選択ができるようになります。

 

私たちのまわりにある「呪い」は、客観的な根拠のない「意見」にすぎません。

でも、「呪い」だけあって、それはそれは根強く私たちの心の中や社会に浸透しています。「呪い」から解放され、自分らしく、幸せに生きていくためには、まずは、「それって事実?それとも意見?」と自分に問いかける習慣をつけることです。

その物差しをちゃんと持っていれば、段々、「呪い」を見抜けるようになります。

それが、健全な批判精神に基づいた思考、つまり、クリティカル・シンキングの土台です。

 

王子様に「発見される」のではなくて、自分が自分を「発見する」のです。

 

働くミレニアル女子が身につけておくべき力は、

①働き続ける力

②学び続ける力

③助けを求める力

④繋がる力

の4つだと思います。

 

 

読みやすく、分かりやすかった。

ついこないだ、ミニレクチャーで個人と社会の関係について話したばかりで、自分の考えと共通する部分が沢山あって嬉しかった。

自分で自分の幸せを決められる部分もあるけれど、社会のありようで変わる部分もかなりあるのだから、皆で社会に働きかけて、より良い社会にし、皆の幸せをより増やしていきたいなあ。

一つ一つの選択肢を納得しながら説明できるようにしていきたいな。

 

 

 

 

愛の労働あるいは依存とケアの正義論

愛の労働あるいは依存とケアの正義論

著:エヴァ・フェダー・キティ  白澤社

 

 依存して生きる者たちにはケアが必要である。まったく無力な状態で生活全般にわたってケアが必要な新生児も、まだ身体は動くけれども弱って生活に介助が必要な高齢者も、基本的なニーズを満たしてくれる人がいなければ、生きることや成長することができない。依存は、幼少時代など長期にわたることもあれば、一時的な病気のときのように短期間のものもある。文化的慣習や偏見によって依存の軽重は異なりうるが、人間の成長や病気、老いといった不変の事実を考えれば、どんな文化も、依存の要求に逆らっては一世代以上存続することができない。ケア責任を負うのは誰か、実際にケアを行うのは誰か、ケアがきちんと行われているかを確認するのは誰か、ケアサービスを提供するのは誰か、ケアする者、される者の双方を扶養するのは誰かといった問題は、社会的、および政治的問題である。それらは社会的責任および政治的意思の問題なのだ。これらの問題にどのように応答するかによって、依存という事実がすべての市民の完全な平等という考え方と両立するかどうか、すなわち、完全なシティズンシップがすべての人々に拡大されうるかどうかが決まる。

 社会がこのようなニーズに対するケアをどう体系化するかは社会的正義の問題である。伝統的に、依存の世話を引き受けてきたのは女性である。その労働は家族の義務として、他のどんな責任にも勝るものと考えられてきた。裕福な女性や地位の高い女性には、毎日のケア労働を他の人に委ねるという選択肢もありうる。その場合ゆだねられるのは一般的に、貧しく弱い立場の女性である。貧しい女性は賃労働をしながら同時に依存の責任を引き受けており、家族内の他の女性メンバーの助けに頼ることも多い。このように依存労働がジェンダー化され、私事化される傾向が意味するのは、第一に、男性はほとんどケアの責任を共有してこなかった(少なくとも自分と同じ階級の女性ほどには)ということ、そして、第二に、政治的、社会的正義の議論は、男性の公的生活を基点とし、ジェンダー間および階級間での依存労働の公平な分担という問題をほとんど考えてこなかったということである。その基点が、道徳理論や社会理論、政治理論を規定するだけでなく、公共政策の枠組をも決定してきた。

 

例えば、耳が聞こえる子供たちの学級では、差異は耳の聞こえない子供の特性とされ、耳の聞こえない子どもは聞こえる仲間に合わせなくてはならない。しかし、そう主張するのは、耳の聞こえる子供たちもまた耳の聞こえない子供に対して差異を有しているという事実を無視することである。耳が聞こえることも聞こえないことも、どちらも本質的には差異ではない。差異とは子供同士の関係性の中にあるのだ。

 

ジェンダー平等の問題を考える時は常に、男女双方の中に存在する多様性を考慮する必要があるということだ。(多様性批判)

 

社会が平等者の集団として考えられている場合のみ可能であるような平等は、労働の性的分業の一面、つまり、男性の側に女性を包摂することにしか目を向けない。ジェンダー役割を変革しようと思うなら、女性の側の労働を再分配する戦略を追求しなくてはならない。

 

 

途中

 

 

 

 

会社というモンスターが、僕たちを不幸にしているのかもしれない。

私たちは「カイシャのために」と思って、日々頑張って働いています。しかし、カイシャはそもそも実体がない。そんな実在しないものに対して「カイシャのために頑張ります!」と言っているわけで、考えてみれば、おかしな話ですね。

では、私たちは誰のために働いているのでしょう。実際には、「お客様のため」であったり、「一緒に働く仲間のため」であったり、「次の世代の人たちのため」だったり、「自分のため」だったり。カイシャではなく、もっと別のいろいろなもののために頑張っているはずです。ところが、私たちは「カイシャのため」という言葉を何気なく使ってしまいます。この言葉は、我々が思考停止していることの表れで、実態と乖離しています。とても危ない言葉だと思います。

 

じつは社長というのは内部的な役職の名前なので、カイシャ法で言うと何の権力もありません。法律上、権限がない。ですから、カイシャを見るときに、一番見ておかないといけないのは「代表取締役」です。 

 

日本のカイシャが楽しくないのは、「社員を我慢させる仕組み」で運営されているから。その仕組みを作っているのは、会社の代理人である代表取締役。だから、カイシャを選ぶときは、この代取締役がどんな人かを見ることが重要である。

 

世の中の多くの企業は、企業理念を軽視しているように思えてなりません。企業理念を重視しないということは、集まる理由が弱いということです。集まる理由がないところで働いて、楽しいはずがありません。自分は何のために働くのか。企業理念は、働く一人ひとりにとって、モチベーションの根幹なのです。

 

売上が大きいということは、「顧客からたくさん巻き上げている」とも言えます。人から巻き上げたお金の総額が売り上げです。……

世の中には売上を上げなくても、すごいことをしている人たちがいます。

(①LinuxというOSを作っているリーナス・トーバルズと言う人。②オンライン辞書の「Wikipedia」。)

近年では、これらのようなカイシャを超えた組織が、次々と登場しています。

だから、「A社は売上が〇億円。B社はその半分しかない。だからA社のほうがすごい」という話を聞いても、疑った方が良いと思うのです。

 

もう一つの指標、「利益」を考えてみましょう。

売上が大きいカイシャは、利益でも怖い面があります。というのも、売上が大きいと、簡単に利益を上げられるからです。……利益を増やそうと思ったら、分配を減らせばいい。これが危険な構図です。……楽しく働けるカイシャかどうかを判断する際には、利益よりも、どこにどれくらい分配しているのか、というところを見た方がいい

 

代表のビジョンと自分のビジョンとの関係を考えよう

楽しく働くために最初に紹介したいコツは、代表のビジョンと自分のビジョンを重ねることです。……とはいえ、カイシャの代表と社員が、100%同じ理想を持っている、なんてことはありえません。……重ね合わせられる部分が見つかるのであれば、その重なった部分で楽しく働けるようになります。

自分が持っている夢を叶えられる場所なのかどうか、これを確認することが大事です。このカイシャの代表が何をやりたがっていて、自分が何をやりたがっていて、そこに交点はあるのか、ということです。

これは、あなたがまず「自分の夢」を持っていないといけない、ということでもあります。さて、あなたの夢はなんですか。

 

一人ひとりにとって、「得ることがうれしい」ものをすべて報酬であると定義するならば、他にもたくさんの種類の報酬があることに気づきます。

(「気持ちよく働ける仲間」、「楽しい職場」、「人脈」、「仕事の内容」、「副業可能」、「働く環境」…等々)

 

もし、いまあなたがカイシャを辞めようかどうしようか迷っている、あるいはあるカイシャに入ろうかどうか思案しているのであれば、そこで働いている人に対して質問をしてみるといいでしょう。「カイシャは楽しいですか?」というシンプルな質問です。

 

あなた自身が「楽しく働き続ける」にはどういう思考をすればいいのでしょうか。その思考法を、サイボウズでは「モチベーション創造メゾット」と呼んでいます。……モチベーションが高い状態とは、「やりたい」「やれる」「やるべき」という三つの条件が重なっている、と定義しています。

……「やりたい」のポイントは「変化する」ということです。いろいろなことを経験するうちに違う分野にも興味が湧いて、「やりたい」対象がシフトしていくのはよくあることです。だから、楽しく働こうと思ったら、自問自答を繰り返し、自分の「やりたい」を把握し続ける必要があります。答えは自分の中にしかありません。私もいまだに自問自答を続けています。

「やれる」のポイントは、「拡大可能」だということです。スキルがないうちは「やれる」ことは限られていて、誰かの仕事を真似して同じようにこなすのが精一杯かもしれません。しかし、何度も繰り返しているうちにコツを掴み、より速く、より上手にできるようになる。自分で新しいアイデアを生み出し、今までとは違うやり方を編み出せるようになるかもしれません。「やれる」を拡大すれば、三つの円を重ねやすくなります。

……「やるべき」仕事の中から「やりたい」と「やれる」の交点を探して、選択する。そして、その選択は、自分の意思によって決めたのだと覚悟する。

 

どの選択肢を取るにしても、自分で選択して、自分で責任を取る覚悟が大事です。他人のせいにしているうちは、主体性から生まれる楽しさを享受できません。

 

これからの時代は、自分という「製品」がコモディティ化の波に飲み込まれないよう、個性を磨いていく必要があります。

いかにユニークさを出すか。一つの鍵は「掛け算」の発想です。一つのスキルだけでユニークさを出すのは、なかなか難しいことです。……そこで「掛け合わせてスキルを作る」ことを考えます。

(例:「農業」×「クラウド」、「野球観戦」×「バーベキュー」、「英語」×「地域」……無限にあるよね)

どこからスキルを身に着ければいいのか分からない人は、とりあえず「やりたいこと」から始めるのが良いと思います。

一つのことに固執するよりも、自分の心の声に素直に耳を傾け、様々なことにチャレンジし、それらを掛け合わせ、ユニークな自分を作り上げていくほうがいい。これからの時代に問われるのは、「あなたの個性は何ですか」ということではないでしょうか。

 

簡素で分かりやすい文章で、すんなりと胸にはいってきた。

転職活動をすると決めて、「カイシャに入ろう」と決めたのはいいものの、どんなカイシャに入ればいいのか迷子になっていたから、この本を読めてよかった。

カイシャというのは実体がなくて、カイシャを動かしているのはあくまでも経営者と社員。そして経営者のビジョンがカイシャの進む方向を決める。

自分が迷子になっていたのは、「カイシャ」の外面だけを見て、中を見ようとしていなかったから。また、自分の「カイシャで働く」を深く考えていなかったから。カイシャを深く見て、自分のやりたいことを深く分析することで、納得のできる転職ができるのではないかと思った。

自分があれこれやりたいとやる性分がいけないのかなあと思っていたけれど、むしろ複数持っていることを誇りに思ってそれぞれを気長に伸ばしていけたらいいのかな。

(「美術」×「手話」×「教育」×「保育」×「ASL」×「外国」……)

 

はずれ者が進化をつくるー生き物をめぐる個性の秘密ー稲垣栄洋

「多様性が大事」と思っていても、じつは人間の脳は「たくさんある状態」が苦手です。そして、「個性が大事」と思っていても、「バラバラにあるもの」が苦手です。人間は、目の前にあるものを、「できるだけ揃えたい」と思ってしまうのです。そのため、人間の世界は均一化する方向に向かいがちなのです。

 

自然界は人間の脳が理解するには、複雑で多様すぎるのです。そこで、人間の脳は数値化し、序列をつけて並べることによって複雑で多様な世界を理解しようとします。そして、点数をつけたり、順位をつけたり、優劣をつけたりするのです。序列をつけ、優劣をつけて比べることで、人間の脳は安心することができます。このように、人間は比べたがります。比べることに意味がないことだったとしても、人間は比べたがります。それは人間の脳のクセのようなものです。これは、致し方のないことなのでしょう。比べないと理解できない。これが、人間という生物が持つ脳の限界なのです。……忘れてはいけない大切なことは、本当は自然界には序列や優劣はないということなのです。

 

人間の脳は、できるだけ事態をシンプルにして、単純に理解したいのです。数値の順に並べただけでは、まだ理解できません。先に述べたように、人間の脳は「たくさん」が苦手です。できれば、二つくらいのものを比べて、どちらが大きいかとか、どちらが小さいかと考えるくらいが、気持ちが良いのです。そのために、人間が作り出したものが「平均」です。

 

平均に近い存在は、よく「ふつう」と呼ばれます。それでは「ふつう」って何なのでしょうか?……そんな人間の脳が好んで使うお気に入りの言葉に「ふつう」があります。「ふつうの人」という言い方をしますが、それはどんな人なのでしょうか。「ふつうじゃない」という言い方もしますが、それはどういう意味なのでしょう。

自然界に平均はありません。「ふつうの木」って高さが何センチなのでしょうか。「ふつうの雑草」って、どんな雑草ですか?

……先に述べたように生物の世界は、「違うこと」に意味を見出しています。いわば生物は、懸命に「違い」を出そうとしているとさえ言えます。だからこそ、同じ顔の人が絶対に存在しないような多様な世界を作り出しているのです。一つ一つが、すべて違う存在なのだから、「ふつうなもの」も「平均的なもの」もありえません。そして、逆に言えば「ふつうでないもの」も存在しないのです。

 

ふつうなんていうものは、どこを探しても本当はないのです。

 

自然界には、正解がありません。ですから、生物はたくさんの解答を作り続けます。それが、多様性を生み続けるということです。……かつて、それまで経験したことがないような大きな環境の変化に直面したとき、その環境に適応したのは、平均値から大きく離れたはずれ者でした。そして、やがては、「はずれ者」と呼ばれた個体が、標準になっていきます。そして、そのはずれ者が作り出した集団の中から、さらにはずれた者が、新たな環境へと適応していきます。こうなると古い時代の平均とはまったく違った存在となります。じつは生物の進化は、こうして起こってきたと考えられています。

 

自然界から見たら、そこには優劣はありません。ただ、「違い」があるだけです。人間は優劣をつけたがります。しかし、生物にとってはこの「違い」こそが大切なのです。足の速い子と遅い子がいる、このばらつきがあるということが、生物にとっては優れたことなのです。ところが、単純なことが大好きな脳を持ち、ばらつきのない均一な世界を作り出した人間はときに、生き物にばらつきがあることを忘れてしまいます。そして、ばらつきがあることを許せなくなってしまうのです。

 

「ものさし」で測ることに慣れている大人たちは、皆さんにこう言うかもしれません。「どうしてみんなと同じようにできないの?」

管理をするときには、揃っている方が楽です。バラバラだと管理できません。そのため、大人たちは子供たちが揃ってほしいと思うのです。しかし本当は、同じようにできないことが、大切な「違い」なのです。そんな違いを大切にしてください。

おそらく、皆さんが成長して社会に出る頃になると、大人たちは、今度はこう言うかもしれません。

「どうしてみんなと同じような仕事しかできないんだ」

「他人とは違うアイデアを思いつきなさい」

 

富士山という山は、どこからどこまでが富士山なのでしょう?

ここから先が富士山だという境界はありません。

ということは、どこまでも富士山は続いていることになります。

 

お釈迦さまの教えである仏教の基本的な考え方は「比べてはいけない」というものです。大昔から、比べてはいけないと説かれ続けているということは、比べないことがそれだけ難しいからでもあるのです。

 

人間の脳は、境界のない自然界に線を引いて区別をするだけでなく、線を引くことで比べたくなります。そして、優劣をつけたくなります。つまり、「区別」でなく、「差別」をしてしまうのです。

まず、自分と相手とを比べてしまいます。

比べるときには、自分を基準にして自分が「ふつう」と考えます。本当は、自然界に「ふつう」というものは存在しないのに、です。

そして、「ふつう」と「ふつうではない」と区別します。そして、自分とは違うものを非難したり、差別してみたりしてしまうのです。

自然界に境界はありません。「ふつう」もありません。イヌとネコの区別さえ、本当は説明できないのに、日本人と外国人との区別なんてあるのでしょうか。肌の色による人間の違いなんてあるのでしょうか。

「障害者」と「健常者」という区別もあります。しかし、体のすべてが正常だという人などいるはずもありませんし、体のすべてに障害があるという人もいません。

大人と子供だって境目はありません。小学生と中学生だって、通っている学校が違うだけで、本質的な境目はないのです。身長は毎日、毎日、少しずつ大きくなっていきます。ある日、突然、中学生の体に成長するわけではありません。

 

「フレーム」理論というものがあります。……

あなたは自分のことをダメな存在だと思うことがあるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。あなたは陸の上でもがいている魚になっていないでしょうか。飛ぶことに憧れるダチョウになっていないでしょうか。誰にも自分の力を発揮できる輝ける場所があります。ダメなのはあなたではなく、あなたに合わない場所なのかもしれません。

持っている力を発揮できるニッチを探すことが大切なのです。

 

ナンバー1になれるオンリー1のポジションを見つけるためには、若い皆さんは戦ってもいいのです。そして、負けてもいいのです。

たくさんのチャレンジをしていけば、たくさんの勝てない場所が見つかります。こうしてナンバー1になれない場所を見つけていくことが、最後にはナンバー1になれる場所を絞り込んでいくことになるのです。

 

勝者は戦い方を変えません。その戦い方で勝ったのですから、戦い方を変えない方が良いのです。負けた方は、戦い方を変えます。そして、工夫に工夫を重ねます。負けることは、「考えること」です。そして、「変わること」につながるのです。負け続けるということは、変わり続けるでもあります。生物の進化を見ても、そうです。劇的な変化は、常に敗者によってもたらされてきました。

 

最初に上陸を果たした両生類は、けっして勇気あるヒーローではありません。追い立てられ、傷つき、負け続け、それでも「ナンバー1になれるオンリー1のポジション」を探した末にたどりついた場所なのです。……

人間の祖先は、森を追い出され草原に棲むことになったサルの仲間でした。恐ろしい肉食獣におびえながら、人類は二足歩行するようになり、命を守るために知恵を発達させ、道具を作ったのです。

生命の歴史を振り返ってみれば、進化を作り出してきた者は、常に追いやられ、迫害された弱者であり、敗者でした。そして、進化の頂点に立つと言われる私たち人類は、敗者の中の敗者として進化を遂げてきたのです

 

簡素で、でも味わいのある文章でつづられた良書。

個性で悩んでいる子供たちがいたら、この本を渡してあげたいなあ。

人間は、どうも人間が作った言葉によって、振り回されてしまうことが度々ある。

そんな時、自然から教わる、気づかされることがあるのだろうなあ。

日本は、『曖昧さ』を大切にしてきたと思うのだけど、それは人間の脳の限界を知っているから(ある意味、全てを感じる心の方が広いのかもしれない)、くっきり境界を引くことを避けて、余裕を持たせるようにしているのではないかしら。

西洋は、どうも全てをハッキリさせたがりすぎて、逆にその枠の中に閉じ込められてしまうように思う……。さてはて。

今こそ、どう融和するか、混ざり合いながらどう理解・整理するか……を求められているのでは。

 

はじめてのジェンダー論 加藤秀一

本書では、ジェンダーという概念を次のように定義することから出発します。

私たちは、さまざまな実践を通して、人間を女か男か(または、そのどちらでもないか)に<分類>している。ジェンダーとは、そうした<分類>する実践を支える社会的なルール(規範)のことである。

 

……人間を男と女に<分類>する実践に着目するということは、すなわち性別という現象そのものを一つの謎としてとらえるということです。「人間には男と女がいる」ということを自明の前提として置くのではなく、逆に考え方次第で簡単にないことにできるようなものとして扱うのでもなく、<「人間には男と女がいる」という現実を、私たちはどのようにしてつくりあげているのか>を問い続けるということです。 

 

ちょっと話が横道に逸れますが、こういうとき、人がしばしば「生理的に嫌」というレトリックを使うのは興味深い事実です。……嫌悪感のような感情あるいは感覚のあり方には、生まれつきの部分、究極的には生物進化に根ざした人類共通の部分だけでなく、その人が育った社会的環境に深く結びついた部分もあるからです。……このように考えてくると、「生理的」云々という言い回しが示しているのは、味覚が生まれ持った体質で決まっているということではなく、むしろ私たちが環境の影響をどれほど深く「身体化」(エンボディメント)するかということなのだ、ということがわかります。

 

トイレを人種別にするのも性別で分けるのも、あるいは身体に障害のある人が使いやすいトイレをつくるのもつくらないのも、肉体の仕組みや本能などではなく、私たちがどのような規範にもとづいて行動するかにかかっています。そしてたとえば、外見と自己認識における性別が食い違う人々や、自分を男でも女でもないと感じる人々が安心して使えるトイレが少ないことも、私たちが行う社会的実践の結果であり、人々を「男」と「女」という記号に関連付けて<分類>するやり方としてのジェンダーの現れなのです。

 

人間を肉体の構造からみた場合、大きく2つのグループに分けられることは事実です。卵巣をもち卵子をつくる個体と、精巣をもち精子をつくる個体です。もしも「性別」という概念がただ単に生殖機能の違いだけをさすのなら、それは水素原子と酸素原子の違いに似ているかもしれません。実際、生物学者たちは、ヒトであれ他の動物であれ区別なく、「オス」と「メス」という概念をそのように使っています。その場合は、わざわざ人間にだけジェンダーという概念を使う必要もないでしょう。しかし実際には、そう簡単にいきません。なぜかといえば、私たちが生きている現実において、性別という概念は単純に「精子をつくるか、卵をつくるか」にはとどまらない、それ以上の意味をもっているからです。人間の「女」は単なる「メス」ではないし、「男」は単なる「オス」ではないのです。

 

私たち人間は、<分類>する側と<分類>される側との間の相互作用=ループ効果を通じて、女性と男性のあり方を決めていく。そのような相互作用を支える規範をジェンダーと呼ぶ。……こうしてみると、ジェンダーという現象が、人と人との関係という意味で「社会的」なものであるということがいっそう際立ってくるはずです。

 

トランス男性はシリアスなドラマになり、トランス女性と言えば毒舌とお笑い。この明瞭な非対称性は何を意味しているのでしょうか。かつてシモーヌ・ド・ボーヴォワールが名著『第二の性』で述べたことが一つの手がかりになりそうです。ボーヴォワールによれば、男性が人間の基本形であり女性は二次的な派生物のようにみなされる性差別社会の中では、女が男になることは「昇格」であるのに対し、男が女になることは「転落」を意味するために責めを負いやすいのかもしれません。それと関連して、「男らしさ」の方が「女らしさ」よりもある意味で呪縛がきつく、許容範囲が狭いのかもしれません。

 

アイデンティティ問う側問われる側はしばしばマジョリティとマイノリティという<分類>と重なっています。そしてマジョリティは自分自身のアイデンティティを空気のように透明で自然なものとみなし、その自分自身を基準として、マイノリティを異質で偏った<他者>として扱いがちです。

 

ジェンダーが女と男の分類を指すのに対し、セクシュアリティとはある種の欲望を表す概念です。日本語に訳せば同じ「性」になってしまいますが、その中身は全く違います。

 

性差とは事実としての男女の違いを意味する概念でした。……

これに対して「性役割」は、人がその性別に応じて社会の中で期待される行為のパターン、と定義されます。期待をもつことは心の状態ですから、性役割とは男女の性質や行動の違いそのものではなく、そうした違いに関する人々の考えーー「女はこうあるべきだ」「男ならこうしてほしい」といったーーを表す概念だということになります。

ここで重要なのは、性役割への「期待」は実際の性差とイコールではないということです。もちろん人は周囲からの期待を、とりわけ広く社会的に共有されている期待を吸収しながら育ち、またそれを意識しながら行動するものなので、人々の頭の中にある「性役割」は男である人・女である人それぞれの性質や行動パターンに影響を及ぼし、それゆえ性役割と性差の内容は一致しやすくなります。

 

暴力と暴力でないものとの境界線は特定の動作や力そのものに宿っているわけではなく、それらを私たちがどのような文脈の中で行使するか、言い換えれば、どのように意味づけるかにかかっています。いかなる行為も、もっともな理由のある、正当な行為とみなされれば暴力ではなく、もっともな理由のない、不当な行為とみなされれば暴力と呼ばれる可能性があるのです。それでは、正当と不当の区別はどのようにして決まるのでしょうか。あるいは、決めればよいのでしょうか。ここで忘れてはならないのは、行為の意味は複数あるという事実です。……最も基本的なことは、暴力という概念を意味のあるものとして理解するためには、<被害者>の視点をとらなければならないということです。……暴力という現象が存在するということを前提として認めるならば、それを<被害者>の視点から意味づけなければならない。もしも反対に<加害者>の視点をとるなら、そもそも暴力という現象はこの世に存在しないことになってしまうからです。子供を殴り殺したり餓死させたりした親は、それを「しつけ」だったと抗弁するかもしれません。女性を脅して性行為を強要した男性は「合意のうえのセックス」だったと言い訳するでしょう。かれらの視点から見れば、それらはすべて問題のないこと、あるいは良いことであって、暴力などではありません。こうした<加害者>の言い分ばかりが通る世界には、暴力など存在しないのです。なんと治安の良い世界でしょう。しかし、あなたはそういう世界に住みたいですか。

 

ジェンダー論の基本中の基本が丁寧に書かれている。

使われる言葉の意味を曖昧にせず、しっかり考えることが誤用や乱用を防ぐのに効果的な方法だとわかった。

自分も「オス」「メス」は別に構わへん(そら、そーやと思う)けど、「女性」「男性」に違和感を持つ理由がより明確になった。

 

読んでてふと気になったのは、「男らしさは女らしさよりも狭いのでは」という文章。

確かに、男は見た目の自由性は女性よりかなり低い(長髪、スカートに対して否定的な印象がある、化粧など身だしなみに力をいれるとからかわれる、物のデザインも女性のよりも幅が狭い?)。前は、社会上での立場が高かったから、よかったのかもしれないけれど、非正規雇用率が高まって、男性も非正規で働く割合が増えて、……苦しいのではないかなあ。

女性解放も大事だし、男性解放も大事。だから、私は周囲の男性たちに「男らしさ」を無理に求めないように気を付けたいな。その人らしさを尊重できるようになりたい。

いろんな本が紹介されていたから、折々に読みたい。

 

 

 

 

ちゃんとわかる消費税 斎藤貴男 河出書房新社

消費税は、平等な税ではありません。社会の中の弱い立場の人を苦しめる税制です。テレビや新聞が伝えようとしない問題点を、読み解いていきます。

 

消費税の基本を考える上で、最も大事で、だけど、なぜか誰も知らない点が大きく二つあります。

一つは、消費税というのは、原則すべての商品・サービスの「あらゆる流通段階」にかかってくるということ。「あらゆる」と書いたことを覚えておいてください。

もう一つは、消費税を実際に「誰が」税務署に納めるか、「誰の手で」納められるのかということ。

現在の消費税法では、消費税の申告・納付義務を持つ人、つまり「納税義務者」は、「年間の課税売上高が一千万以上の事業者」となっています。つまり、納めるのはお店でものを買った消費者ではなくて、事業者なのです。

事業者がお客さんや取引先からいただいたお金の中から、消費税を国に払っているのです。

そのお金を誰が実際に負担しているか、これを「担税者」と呼ぶのですが、なんと消費税法にはこの担税者についての規定がありません。つまり、事業者が消費税を税務署に納める際に、誰がそのお金を負担するのか、負担してはならないのか、という決まりが存在していないのです。

 

消費税はすべての商品・サービスにかかるといっても、これはあくまでも原則ですので、例外があります。医療費や福祉サービスにかかる料金やアパートの家賃に対しては消費税がかかりません。助産やお葬式代、あるいは学校教育についてもかかりません。

 

実際にヨーロッパでは「付加価値税」(Value added tax=VAT)と呼ばれるのが一般的ですが、日本では導入当初から今日にいたるまで、あくまでも「消費税」という言い方を通しています。

 

まず税金は、「直接税」と「間接税」とに分けることができます。

税金を納める人と負担する人が同じ税が直接税です。

直接税には、所得に応じて納税する「所得税」、企業が利益に応じて納税する「法人税」、地方税として払う「道府県民税」や「市町村民税」があります。資産に対する課税も直接税です。「相続税」「贈与税」「地価税」「固定資産税」も直接税に含まれます。

直接税に対して、納める人と負担する人が異なる税が「間接税」ですが、この代表が消費税になります。

今回の本で議題にしている消費税は、厳密には「一般消費税」とされており、そのほかに「個別消費税」があります。

個別消費税には、「酒税」「たばこ税」「石油税」などがあります。……

これまでに例に挙げた例はすべて、使い道が特定されていない「普通税」ですが、その他に使い道が特定されている「目的税」があります。……

消費税を考える時、こうして税の全体像を把握しておくことが重要になります。所得税法人税は利益に対してかかる税なのだとわかれば、世の中全体が不景気になりほとんどの企業や個人が利益を上げられなくなった時、それに応じて税収も減っていくことも分かります。

先ほども説明したように、消費税であれば、その心配はないことになります。消費税は取引税ですので、景気が悪くなっても、事業者が自腹を切ろうが、お客さんから預かろうが、どっちにしても入ってくるわけです。「消費税は安定している」という言い分は、徴税する側にとって安定しているのであって、納める側の不安定など、そもそも想定されてもいません。

 

ヨーロッパの生活必需品や食品には軽減税率とゼロ税率が適用されているのが基本です。25%(※スウェーデン)というのはそれらではないもの、どちらかと言えば贅沢な商品やサービスにかかる税率なのです。だから国税収入に占めるウエイトはあまり変わらないなどということにもなる。

 

日本の所得税累進課税が強かった時代には「応能負担」という考え方があったということです。応能負担とは文字通り、「能力に応じた負担をする、お金持ちはそれだけ余計に税金を払う」という原理原則です。今は逆に「応益負担」という考え方に変わっています。要するに税金による公共サービスを直接受ける側が、より多くを負担しなさい、ということです。この典型例が、障害者自立支援法です。「障害がある人が福祉サービスを受けるなら、できるだけ自分で負担するように」という初そうです。障害も自己責任なのだと。こうなうrと、もはや何のための税金だかわかりません。税金とは、みんなで助け合うためにあるはずが、「応益」という考え方の下、サービスを受けなければならない側が負担する。これでは公共サービスではなくて、限りなく民間サービスのビジネスに近づいていきます。

 

消費税のことを少し理解できたと思う。

何にしても、私、飲食料品の税金が上がることは本当に許せない。

スーパーで買い物をするたび、「ううっ……高くなった……」と思う……。

レストランなどでお持ち帰りすれば8%になるというのも本当に意味が分からない。プラスチックの使用量が増えて、環境に優しくないやん。

消費税をきちんとすべて福祉に回せているのであれば、まだ納得のしようがあるけど、そうではないようだし、許してあげる理由がない。

だから、消費税増税はもってのほか、5%か0%に戻してほしい!うん。